東京法学校との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:41 UTC 版)
したがって本校はもともと、政府公認の準官学的な法律学校として出発したはずであったが、当時高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け急速に野党色を強めていき、特に自由党を支える人材を生むことになった。校舎となった旧松平忠和邸の三楽舎では、フランス革命の影響を受け自由と権利の拡張を主張する学生たちにより演説会が盛んに行われ、政府からは自由民権の牙城とみなされるようになった。この点、本校に対抗して設立された同じ仏法系の東京法学校が、司法省の強い影響下にあったのとは対照的であった。両校は学生の獲得をめぐって授業料値下げなどの競争・対立が繰り広げられ、ついには共倒れ寸前に至ったため、明治10年代末にようやく和議が成立した。 その後帝国大学(現東京大学)を中心としたイギリス法学の台頭を背景に、1888年末には東京法学校・東京仏学校との間で、これに対抗して同じ仏法系学校として合併しようとする構想が起こったが、野党色の強い本校は結局これに参加しなかった(東京法学校・仏学校は合同して和仏法律学校となり、法政大学の前身となった)。 しかし1889年、民法・商法の両法典の実施の可否をめぐる法典論争が起こると、本校は仏法学派として和仏法律学校と共同戦線を組み、英法系(帝国大学・東京法学院など)の実施延期論を批判し、法典実施断行運動を展開した。
※この「東京法学校との抗争」の解説は、「明治法律学校」の解説の一部です。
「東京法学校との抗争」を含む「明治法律学校」の記事については、「明治法律学校」の概要を参照ください。
- 東京法学校との抗争のページへのリンク