東京ベイエリアの撮影所
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「阪東妻三郎プロダクション」の記事における「東京ベイエリアの撮影所」の解説
1931年(昭和6年)1月、阪東は「大日本自由映画プロダクション」を設立、京成電鉄が提供した千葉県千葉郡津田沼町谷津海岸(現在の習志野市谷津)の塩田地帯の約5万平方メートルの土地(のちの谷津遊園)に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」を建設した。第1作は東隆史監督の『洛陽餓ゆ』で、パラマウント社の配給により同年7月15日に公開されたが、第2作、おなじく東監督の『風雲長門城』からは、同年に帝国キネマから改組された新興キネマの配給となった。松竹資本のもと、帝国キネマの専務取締役となり、当時新興キネマの常務取締役となった立花の斡旋による。 この立花は配給権をエサに商売をするのが癖であり、東京でも詐欺同然に金を集めていた。「アラカン一代」にあるように立花のバックには右翼団体黒竜会がついておりヤクザも歯が立たない大物である。この際に義憤を感じて単身乗り込んで行ったのが後の住吉会最高顧問の福原陸三である。愚連隊であった福原は立花に話をして出資金の半額を取り戻してきた。 1932年(昭和7年)の正月映画はふたたび「岡山俊太郎」名義で阪東が監督した『月形半平太』であったが、同年7月、同撮影所が火事になり、沖博文監督による阪東主演作『英五郎二人』のネガフィルムが焼失するという事件が起きた。火事のせいか、当時の「神変麝香猫」全3作シリーズ、9月公開の3作目は『神変麝香猫 火焔解決篇』となった。 1935年(昭和10年)1月20日に長尾史録監督の『彦左と九馬』を公開したが、反時代的にサイレント映画の製作をつづけたことや、製作費がかかりすぎたことにより多大なる負債を抱えきれなくなり、同年5月、撮影所の土地建物を京成電鉄に返上、新興キネマに合流することとなる。『彦左と九馬』は同撮影所の最終作品となった。
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