東京ベイエリアの撮影所とは? わかりやすく解説

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東京ベイエリアの撮影所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 09:36 UTC 版)

阪東妻三郎プロダクション」の記事における「東京ベイエリアの撮影所」の解説

1931年昭和6年1月、阪東は「大日本自由映画プロダクション」を設立京成電鉄提供した千葉県千葉郡津田沼町谷津海岸現在の習志野市谷津)の塩田地帯の約5万平方メートル土地(のちの谷津遊園)に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」を建設した第1作東隆監督の『洛陽餓ゆ』で、パラマウント社の配給により同年7月15日公開されたが、第2作おなじく監督の『風雲長門城』からは、同年帝国キネマから改組された新興キネマ配給となった松竹資本のもと、帝国キネマ専務取締役となり、当時新興キネマ常務取締役となった立花斡旋よる。 この立花配給エサ商売をするのが癖であり、東京でも詐欺同然に金を集めていた。「アラカン一代」にあるよう立花バックには右翼団体黒竜会がついておりヤクザも歯が立たない大物である。この際義憤感じて単身乗り込んで行ったのが後の住吉会最高顧問福原陸三である。愚連隊であった福原立花に話をして出資金半額取り戻してきた。 1932年昭和7年)の正月映画はふたたび「岡山俊太郎名義で阪東が監督した月形半平太であったが、同年7月、同撮影所火事になり、沖博文監督による阪東主演作英五郎二人』のネガフィルム焼失するという事件が起きた火事のせいか、当時の「神変麝香猫」全3作シリーズ9月公開の3作目は『神変麝香猫 火焔解決篇』となった1935年昭和10年1月20日長尾史録監督の『彦左と九馬』を公開したが、反時代的サイレント映画の製作をつづけたことや、製作費がかかりすぎたことにより多大なる負債抱えきれなくなり同年5月撮影所土地建物京成電鉄返上新興キネマ合流することとなる。『彦左と九馬』は同撮影所最終作品となった

※この「東京ベイエリアの撮影所」の解説は、「阪東妻三郎プロダクション」の解説の一部です。
「東京ベイエリアの撮影所」を含む「阪東妻三郎プロダクション」の記事については、「阪東妻三郎プロダクション」の概要を参照ください。

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