杞渓・安康・浦項の戦い(東部戦線)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 15:34 UTC 版)
「釜山橋頭堡の戦い」の記事における「杞渓・安康・浦項の戦い(東部戦線)」の解説
詳細は「浦項の戦い」および「杞渓・安康の戦い」を参照 韓国軍が守る東北部戦線では、東海岸の盈徳を防御する韓国第3師団(金錫源准将、8月6日に着任)と青松を守備する首都師団(白仁燁大佐)とのあいだに戦力の通過は難しいと判断された急峻な山岳地帯があった。 8月8日、北朝鮮第12師団がここから30キロメートル侵入して東北部戦線に大きな穴を開けた。北朝鮮軍は杞渓、興海に達し、盈徳の南方は遮断され韓国第3師団は孤立した。第8軍はこの危機に対しアメリカ第9連隊第3大隊を基幹としてブラッドレー支隊を編成し、浦項の南側で延日飛行場の確保が命じられた。 延日飛行場にはアメリカ軍第5空軍がF-51戦闘爆撃機2個中隊を展開していたが、飛行場を警備していた部隊は他に転用されていた。この飛行場を失うことは対地上支援に大きな影響があった。北朝鮮軍が延日飛行場に接近したため、F-51は夜間に日本に待避した。延日のF-51は離陸したのち主脚を引き込む暇がないほどの近距離で反復支援攻撃を行った。マッカーサーの中止勧告があったにもかかわらず、第5空軍は8月13日に九州の築城基地へ飛行隊を避難させた。 8月13日、首都師団による逆襲が開始され、18日には杞渓を奪回した。浦項にはアメリカ軍により徹底的な艦砲射撃と爆撃が行われた。8月13日に兵員630名で浦項に侵入した北朝鮮第12師団第1連隊第2大隊が、8月18日には兵員20名まで減少していたほどで、廃墟と化した市街は、大邱の正面から転用された韓国軍閔支隊とブラッドレー支隊により8月18日に無血で奪回された。 浦項から杞渓の北朝鮮軍は一掃され戦線は整理された。ブラッドレー支隊は8月20日で解散した。延日飛行場にはアメリカ第9連隊第3大隊が警備部隊として残り、閔支隊は大邱に移動した。
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