杉田玄白との出会いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 杉田玄白との出会いの意味・解説 

杉田玄白との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 01:58 UTC 版)

建部清庵」の記事における「杉田玄白との出会い」の解説

清庵はオランダ流医術行っていたが、その医学としての基礎はっきりしないことに不満を持っていた。明和7年1770年)閏6月18日日頃疑問書簡にし、弟子衣関甫軒にそれを託した。「江戸オランダ流医学の偉い先生がいたら疑問解いてほしい」ということで、特に相手定めて書簡ではなかった。しかし、江戸蘭方医も清庵の疑問を解くことはできず、書簡むなしく一関戻された。 衣関甫軒は再度江戸へ向かって安永2年1773年)の正月(あるいは前年暮れ)、今度しかるべき人物書簡届けることができた。『解体新書』の翻訳作業行っていた杉田玄白である。 『解体新書』はそれまで医書はまった違ったものであり、その出版には、玄白も不安を抱いてたらしい。そこへオランダ医学への情熱満ちた書簡届いた。玄白にとっては強力な味方得た思いであっただろう。またそこに書かれている疑問はいずれ正鵠得たものであり、清庵の見識に玄白は感動した急いで返書書き発行されたばかりの『解体約図』を添えて清庵へ送り届けた一方、清庵は返書と『解体約図』に感動し、「口開き合わず、舌挙がり下らず頻りに感涙仕り…」というほどだった。以後、清庵と玄白は何度も手紙交換し堅く結びつくこととなる。 のちに、2人のあいだに交わされ手紙は、玄白の蘭学塾において初学者対すオリエンテーションとして読まれた。寛政7年1795年)、大槻玄沢杉田伯元(清庵の子)らは最初の2往復を『和蘭医事問答』の題名出版した

※この「杉田玄白との出会い」の解説は、「建部清庵」の解説の一部です。
「杉田玄白との出会い」を含む「建部清庵」の記事については、「建部清庵」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「杉田玄白との出会い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「杉田玄白との出会い」の関連用語

1
14% |||||

杉田玄白との出会いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



杉田玄白との出会いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの建部清庵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS