杉田玄白との出会い
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清庵はオランダ流の医術を行っていたが、その医学としての基礎がはっきりしないことに不満を持っていた。明和7年(1770年)閏6月18日、日頃の疑問を書簡にし、弟子の衣関甫軒にそれを託した。「江戸にオランダ流医学の偉い先生がいたら疑問を解いてほしい」ということで、特に相手を定めての書簡ではなかった。しかし、江戸の蘭方医も清庵の疑問を解くことはできず、書簡はむなしく一関に戻された。 衣関甫軒は再度江戸へ向かって、安永2年(1773年)の正月(あるいは前年の暮れ)、今度はしかるべき人物に書簡を届けることができた。『解体新書』の翻訳作業を行っていた杉田玄白である。 『解体新書』はそれまでの医書とはまったく違ったものであり、その出版には、玄白も不安を抱いていたらしい。そこへオランダ医学への情熱に満ちた書簡が届いた。玄白にとっては強力な味方を得た思いであっただろう。またそこに書かれている疑問はいずれも正鵠を得たものであり、清庵の見識に玄白は感動した。 急いで返書を書き、発行されたばかりの『解体約図』を添えて清庵へ送り届けた。一方、清庵は返書と『解体約図』に感動し、「口開きて合わず、舌挙がりて下らず、頻りに感涙仕り…」というほどだった。以後、清庵と玄白は何度も手紙を交換し、堅く結びつくこととなる。 のちに、2人のあいだに交わされた手紙は、玄白の蘭学塾において初学者に対するオリエンテーションとして読まれた。寛政7年(1795年)、大槻玄沢、杉田伯元(清庵の子)らは最初の2往復を『和蘭医事問答』の題名で出版した。
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