朱慶瀾の腹心として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 05:07 UTC 版)
農業・商業兼業の富裕な家庭に生まれる。初めは学問を志したが、富国強兵路線の必要性を知ると、軍人の道を歩み始めた。1903年(光緒29年)、官費により日本に軍事留学する。この時、黄興・宋教仁の影響を受け、1904年(光緒30年)に中国同盟会に加入した。1908年(光緒34年)、陸軍士官学校砲兵科を卒業した。 帰国後は奉天巡防統領朱慶瀾の下で任用され、朱からその才能を評価される。朱が四川省に転任すると、姜もこれに随従し、陸軍第33混成協二等参謀官、四川陸軍小学堂総弁等をつとめた。1911年(宣統3年)、四川で鉄道国有化反対運動と武昌起義が結びつき、四川総督趙爾豊が下野に追い込まれる。このとき、朱は成都で四川軍政府副都督に擁立され、姜も四川軍政府参謀総長に推薦された。しかし姜は、これを固辞している。まもなく、朱は兵士の反乱により失脚に追い込まれたため、姜は朱とともに四川省を退出した。 1912年(民国元年)に保定陸軍軍官学校教官、翌年に貴州陸軍第1師参謀長に任命される。同年11月、四川時代の上司で黒竜江に赴任していた朱慶瀾の下に戻り、署黒竜江督軍公署参謀長に任命された。12月、陸軍少将の位を授与される。1914年(民国3年)6月には、鎮安右将軍行署参謀長として朱を補佐した。同年5月、朱が許蘭洲により下野に追い込まれると、姜もともに下野する。1916年(民国5年)、朱が広東省長に任命されると、姜はやはりこれに随従して補佐を続けた。
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