本所松坂町前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 04:36 UTC 版)
本所松坂町があった周辺は、かつては広大な幕府の御竹蔵(竹材保管施設)があったところで、1670年代の延宝年間にそれがあったことが確認されている。元禄の初年頃(1690年前後)に御竹蔵周辺は大きな改修工事が行われ、西正面の道に張り出して設置されていた小屋場(竹材の陸送に用いる大八車が置かれていた)が廃されて御竹蔵正面は西から南にかわり、水運のための竪川に続く新道が敷かれた。 元禄11年9月6日(1698年10月9日)の大火(勅額火事)後に御竹蔵は廃され、同年11月には御竹蔵跡を武家屋敷にするた南北に走る新道が敷かれ、東西のブロックができた。勅額火事に被災した松平信望と土屋逵直はすぐにが西ブロック内に代替地を拝領。12月には西ブロック内に本多長員、東ブロック内に牧野長門守と鳥居久五郎が代替地を拝領した。元禄14年(1701年)8月に信望はここを立ち退き、翌月に吉良義央が受領した。 吉良邸の先住者に関して、鉄砲百人組頭だった近藤貞用であったとした説が古くからあり、文政11年(1828年)頃に町方からの報告によって幕府が作成した『文政町方書上』や『御府内備考』などにもこの説が記載されていた。これは本所松坂町二丁目にあった「兼春稲荷」の別当・円蔵院が書いた由緒書の間違いから出たもので、貞用が信望と同じ「登之助」を通称していたことから誤ったとされている。本所松坂町があった周辺では「近藤登之助説」は昔から信じられており、そのため三田村鳶魚が昭和5年(1930年)刊行の『横から見た赤穂義士』(民友社)で「近藤登之助説」を採用したことから、その影響で吉良邸前主を近藤登之助と書いた本が数多く出た。
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