木津川口の海戦とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 08:22 UTC 版)
『信長公記』では、九鬼嘉隆の建造した6隻の黒い大船に加えて、滝川一益の建造した白い大船1隻が、天正6年(1578年)6月20日に伊勢から出航して雑賀・淡輪の水軍と戦い、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で九鬼嘉隆の6隻が海戦を行ったことが記載されている(第二次木津川口の戦い)。 どのような船であったか、特にその最大の特徴である鉄板などによる装甲があったのかという点では議論があるが、九鬼嘉隆が第二次木津川口の戦いにおいて何らかの新造船を用いて毛利氏の派遣した水軍に挑み、大砲でこれを破ったことは事実である。この戦い以後、本船がどうなったかは不明である。天正10年(1582年)の本能寺の変後、大阪湾に投錨したまま放棄され、朽ちていったという話や解体されて数隻の小早などに作り直された話などが伝わる。 天正12年(1584年)6月、九鬼嘉隆は伊勢白子浦から蟹江浦に滝川一益の兵3千人を揚陸させているが、同月19日の海戦に敗れて嘉隆は大船を捨て小舟で沖に逃れており、この時に沈没したとも考えられる(蟹江城合戦)。この嘉隆の大船は、「大宮丸」、「日本丸」と伝わる。 文禄元年(1592年)からの文禄の役では九鬼水軍の安宅船が数々の海戦に参加しており、また、同役では多数の船舶が失われた。この時の旗艦は「日本丸」であり、元は「鬼宿丸」という名の船であったという。その後も九鬼水軍は、慶長の役、安濃津城の戦い、大坂の陣などに参加している。 石山合戦の転機となった第二次木津川口の戦いの主力艦でありながら、600隻の軍船からなる毛利氏の水軍に勝利したという伝説的戦果の真否や、その寸法、鉄による装甲の有無、その最期など、様々な点で謎に包まれた存在となっている。
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