木津川口の戦い
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木津川口の戦い
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天正4年(1576年)5月には毛利と同盟する播磨英賀の領主である三木通秋の所領に入り、三木軍と合流して5,000の兵で播磨国衆の中でも親織田派であった小寺孝高と交戦するも敗北した(英賀合戦)。同年9月の第一次木津川口の戦いでは総大将として出陣し、織田氏配下の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍と激突し、焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により九鬼水軍は壊滅。無事に石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功している。しかし、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、鉄甲船を使用した九鬼水軍の前に敗北を喫した。天正7年(1579年)に別所長治が籠城する三木城への兵糧搬入を成功させている。 天正10年(1582年)に、織田氏(羽柴秀吉)の調略工作が宗勝に及んだ模様であるが、宗勝本人はこれを拒絶したものの、嫡男の浦盛勝が秀吉方から「盛勝単独の同心でも歓迎する」などの書状を受けるなど不穏な動きを見せた。主君の小早川隆景はこれに素早く反応し、同年に盛勝は急死している。暗殺説も囁かれる、謎の死であった。
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