朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の学会による解釈
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「好太王碑」の記事における「朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の学会による解釈」の解説
韓国・北朝鮮の学会では、碑文で「破」と「攻」の文字が使われるのは「高句麗の軍事行動にだけ」だと指摘しながら、他の国である倭の軍事行動に例外として「破」が使われることはありえないと、一貫して世界で一般的な解釈を否定している(東北大学名誉教授であった井上秀雄はこれに同調している)。 1955年(昭和30年)、韓国の歴史学者鄭寅普の解釈以降、それを土台とした様々な解釈がなされている。鄭寅普は好太王の業績を称えるための碑文に、好太王の業績に対して都合の悪い記述をする理由が無いとして、それらの主語や目的語が相当数省略されているのではないかという認識から、 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民〈新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。〉 と解釈した。これを受け北朝鮮の歴史学者朴時亨が以下のような解釈をした。 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘招倭新羅以為臣民〈新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。〉 韓国学会では好太王碑は好太王の高句麗の業績のためにつくられており、好太王の業績を礼賛する碑に倭が主語となって百残、加羅、新羅を破り臣民としたと記述されるのは間違えていると主張し、以下のような解釈が韓国学会の定説となっている。 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民〈新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。〉 倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。 399年、百残は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百残討つために出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
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