朝臣体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)
秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用したというのが定説である。 秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転している。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りに利用している。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威をさまざまに利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものである。 さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。 このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことがさまざまな史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っていることから、摂関政治の一種と解釈されることがある。 天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。 また秀吉は、誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王を猶子とし、親王宣下を受けさせていた。智仁親王が天皇に即位すれば、秀吉は天皇家の外戚として権力を振るうことも可能なはずであった。しかし智仁親王の即位前に秀吉は没してしまい、その後、智仁親王の即位は徳川家康によって阻止された。
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