朝椋神社とは? わかりやすく解説

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朝椋神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/29 03:18 UTC 版)

朝椋神社

拝殿
所在地 和歌山県和歌山市鷺ノ森明神丁22番地
位置 北緯34度14分12.59秒 東経135度10分19.18秒 / 北緯34.2368306度 東経135.1719944度 / 34.2368306; 135.1719944 (朝椋神社)座標: 北緯34度14分12.59秒 東経135度10分19.18秒 / 北緯34.2368306度 東経135.1719944度 / 34.2368306; 135.1719944 (朝椋神社)
主祭神 大国主命
社格 式内社(小)
旧村社
創建 不詳
例祭 10月15日
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鳥居

朝椋神社(あさくらじんじゃ)は、和歌山県和歌山市鷺ノ森明神丁にある神社式内社で、旧社格村社

祭神

祭神について、『神名帳考証』では高知県高知市朝倉神社(あさくらじんじゃ)同様に天石帆別命とする説を挙げる[1]

歴史

概史

古い由緒は不詳。平安時代中期の『延喜式神名帳には紀伊国名草郡に「朝椋神社」と記載され、式内社に列している。また『紀伊国神名帳』には「従四位上 朝椋神」と記載されている。

明治時代の『和歌山県神社明細帳』によれば、寛弘2年(1005年)5月に摂社修葺、永徳2年(1382年)5月・応永18年(1411年)4月・永享10年(1438年)12月・康正3年(1457年)8月・永正年間(1504年-1521年)に造営があり、天正年間(1585年)の兵火で社領を失ったという[1]。そして文禄5年(1596年)に和歌山城代桑山重晴が再建したが、万治2年(1659年)に焼失、翌年紀州徳川家により復旧された[1]

享保8年(1723年)の「鷺森神社記」によると、式内社・朝椋神社は所在不明となっていたが、延宝年間(1673年-1681年)に和歌山藩の儒者・李梅渓がそれまで「顕国社」と称した当社を式内社に比定し、社名を「朝椋神社」に改称したという[1]

明治に入り、近代社格制度では村社に列した。社殿は第二次大戦の和歌山市空襲で焼失し、昭和35年に再建された[1]

神階

摂末社

  • 神明神社
  • 子守勝手社

現地情報

所在地

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c d e 『和歌山県の地名』朝椋神社項。

参考文献

外部リンク




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