普賢岳噴火について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 05:46 UTC 版)
1990年に普賢岳が噴火した際には「自分が研究してきた火山がやっと噴火した」と研究者として当初感じた率直な意見を語っている(当時の役職は九州大学理学部付属島原地震火山観測所所長)。1991年、普賢岳の火砕流や土石流による被害が深刻化すると、仕事内容は研究調査よりも災害対策が主体となり、ヘリコプターによる上空からの視察は900回にも及んだ。立ち入り禁止区域は、可能な限り広範囲にと主張し、避難生活の長期化や防災工事の遅れのために早期縮小と求める行政側としばした対立することが多かった。1991年6月3日の大火砕流の際には、その8日前に島原市長に住民退避を進言し3000人の避難に結びついたが、避難を無視して取材を続けた20人の報道関係者と、23人の非報道関係者が死亡した。非報道関係者の死者数の中には、報道関係者を監視・誘導するために配置された消防団員・警察官、報道関係者がチャーターしたタクシー運転手も多かった。太田はこれだけの死者を出した原因は報道陣の過熱した取材競争と、報道の自由と使命感の根底に潜む特権意識であるとし、報道機関が退去していればこれらの人々の命も救われたはずであるとした。単に観測結果を提供するのではなく、一歩踏み込んで行政の暴走を止めるのも大学研究者の役目になっているとも述べている。
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