春蘭に木もれ陽斯かる愛もあり
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季 節 | 春 |
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評 言 | 佐藤鬼房が逝って13年になる。もうそんなになるのかという想いがあるが、と同時にその俳句世界は時を経るにつれてますます身近に感じられる。「名前なんてすぐ消える。残るのは作品だけだ」と生きている全重量を掛けて作りつづけた俳句は、歳月に塗れることなく立ち上がってくる。鬼房の俳句は、みちのくの風土に立つ精神性の強い作品が評価されがちだが、その一方で掲句のような抒情性に富んだ俳句も多い。俯いて咲く春蘭に囁くように懸かる木もれ日、それを愛だと感じた人は誰も居ない。「私が書くのは弱者への愛だ」と言って憚らなかったのも理解できよう。 「呼び名欲し吾が前にたつ夜の娼婦」「女児の手に海の小石も睡りたる」「吾にとどかぬ沙漠で靴を縫ふ妻よ」「ひばり野に父なる額うちわられ」「月夜しぐれ銀婚の銀降るやうに」「帰りなん春曙の胎内へ」(『佐藤鬼房全句集』)。鬼房の愛の眼差しは深い。生きているあらゆる生命(いのち)に、恵まれない境遇の人々へ、そして何よりも俳句に向かって、鬼房の愛は語り掛ける。孤独の漂流者として生きた精神の余光を翳して。 鬼房が生涯の友として交誼を深めた鈴木六林男は、『名もなき日夜』の跋文に寄せている。「佐藤はかなしい人間である。彼は彼の過去を基盤として、すべてを愛に帰結せしめている。愛はかなしさであり、きびしさである」。鬼房俳句の本質を言いとめた一文であろう。 「絶食と決め原爆の死者と居る」と不条理な死に見舞われた人々へ寄り添ったこの句も鬼房の愛。原発事故による孤島となった福島を想うと、浮かびあがってくる一句である。 |
評 者 | |
備 考 |
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