旧制高校、大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:06 UTC 版)
浦高入学の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起った。木造二階建ての一階が理乙一年の教室で、午前の授業が終わった時だった。津田の席は窓際なので、窓から校庭に飛び降りて赤松の幹に抱きついた。立って歩けない位の揺れで、校舎の屋根瓦が少し落ちた。その頃の浦和の町は市制を施く前で、人口四万位の小さい町だった。鉄筋コンクリートのビルなど殆んど無いから高台の学校から町の様子がよく分かった。土煙が立ち込めていて屋根瓦が落ちたのは大分あったが倒れる家などは無く、津田の家も異状は無かった。 高校三年の生活は、管理の厳しかった台北中学時代から較べると、定期試験を除けば、甚だのんびりと過ごすことができ、拘束の無い学校生活だった。 高校の水泳部に所属していたが、部長の柳谷勉治先生は東大理学部出身の化学の先生で、大学進学について相談したところ薬学が良いだろう、というので有機化学の受験勉強を始めた。 二倍位の志願者があったが、浦高から四人合格した。津田の一年先輩の島野が前の年に入学しているが、津田の後も後続が続々入学したので「鹿ノ子会」という同窓会に五十人以上が集まって盛会だった。 津田は1926年(大正15年)から1929年(昭和4年)まで、浦和から汽車で上野まで、それから上野公園を横切って東大医学部の龍岡門へと登校した。
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