日本代表強化委員長・理事(2002年〜2005年)
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従前の関東、関西、九州に分かれていた3つの社会人リーグを統一した「ジャパンラグビートップリーグ」を創設し、さらに、日本代表監督や選手の評価を客観的に行う「世界8強進出会議」を設置した。しかし、ラグビー協会内の混乱に伴い、形骸化していった。 代表監督の人選が特定の学閥に偏っている(早大か同志社大学出身者)事に嫌悪感を示し、委員長時代に向井昭吾(東海大学卒)の監督就任を発表した。宿沢の日本代表監督時代も、メンバーに自身の後輩(早大関係者)はわずかに2人(堀越正巳・増保輝則)、コーチには1人(植山信幸)であった。なお、コーチに、現在は関東学院大学の監督を務める春口廣(日本体育大学卒)がいた。 2003年の第4回ワールドカップ後に強化委員長を辞任し、理事として協会に残った。 しかし、逝去までの数年は銀行での転勤・異動が頻繁で、大阪勤務時代の2005年6月をもって退任している(これには諸説あり。後述)。2006年4月に専務執行役員として東京に戻ったが、ラグビー協会の役職には就任しなかった。それでも、ラグビー界には根強い宿沢待望論があり、「ラグビーには宿沢がいる」が合言葉だった。
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