日本への将来と縮印版刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 20:38 UTC 版)
「大南寔録」の記事における「日本への将来と縮印版刊行」の解説
かねてパリ滞在中に『大南寔録』の存在を知った松本信広は、昭和8年(1933年)の仏印出張に際して、前河内総領事(当時)の永田安吉から寔録の現況について情報を得て、その入手を企図し、東洋文庫など関係機関と相談して金策を立てた。ハノイでは日本総領事館及び旧知のエミール・ガスパルドンやレオポルド・カディエール神父を通じて学部参知のホー・ダック・ハム、ついでフエで学部尚書のファム・クインと交渉したが、フランスの求めに応じて2部を印刷中とのことで断られて上手く行かなかった。 その後、松本が帰国時に助力を求めたガスパルドンからの働きかけで極東学院院長ジョルジュ・セデスが動き、6部の重版にこぎつけた。印刷後に刷りが不良の箇所を補筆した寔録は昭和10年(1935年)11月に日本に到着し、当時の東京・京都両帝国大学、東方文化学院の東京・京都研究所、東洋文庫および松本の勤務先である慶應義塾大学に納められた。 戦後になって松本は寔録の影印刊行を企図し、慶大所蔵本の縮印本が同大学言語文化研究所から刊行された。出版は1961年に開始されて当初は順調に刊行されていたが、オイルショックなどで資金難に直面し、完結までに20年を要した。これによって稀覯本だった『大南寔録』の利用環境が整えられ、世界の学界を裨益することとなった。
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