日本における伝統地政学の受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:59 UTC 版)
「地政学」の記事における「日本における伝統地政学の受容」の解説
日本における地政学の輸入は第一次世界大戦中に始まり、1917年にチェレーンの『欧州戦争と民族主義』、1918年に『現代の八大強国』が邦訳された。彼の主著である『生活形態としての国家』は1925年に藤沢親雄によって紹介され、国家学の新基軸をうちだすものとして評価された。また、飯本信之は1925年の地理学評論に「人種争闘の事実と地政学的考察」を連載した。飯本は、当時活発化していた欧米諸国による排日運動に反対し、「人口圧が高い集団はそれにふさわしい生活空間が必要だ」という地政学的主張をもとに移民の正当性を主張した。阿部市五郎は1933年に『地政治学入門』を出版した。これは日本人による地政学の教科書としては最初のものだった。 1920年代には日本の地政学における議論は、地政学という新しい学問をいかように位置づけるかを主題とするものが主であったが、1930年代に入り、ドイツの地政学者が積極的に翻訳され、日本でも地政学の展開が図られるようになると、それを批判する学者も現れるようになった。小原敬士は1939年に『社会地理学の基礎問題』を発表し、地政学は国家有機体説と地理的唯物論というすでに否定された学説に依存する疑似科学であり、すでに克服されたはずの両学説が亡霊のように復活しているのは、現在のドイツの社会情勢がそれらを欲しているからだと主張した。
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