旃檀林学寮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:09 UTC 版)
江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん)が作られ、卍山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。 多くの学寮(カレッジ)・寮舎を備え、常時1,000人余の学僧がいた。各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となり、寮主はさらに役員を選び、役員によって学問の指導や日常生活が合議によって運営された。 教科目は内典(仏教)と外典(漢学)で、江戸の中期以降は漢学が重視された。そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍が聴講した。 寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門(1802年建造)と経蔵(1804年建造)を残すのみとなった。 現在は復興され、本堂、客殿、庫裏などが点在する。
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