新野直吉の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 06:18 UTC 版)
「宇漢迷公宇屈波宇逃還事件」の記事における「新野直吉の説」の解説
新野直吉は、大和政権・律令国家の東北経営の目的は、領域を鎮め、守り、その開発を助長することにあり、民力を充実させて班田制のもとに貢租の収納増大を計ることにあった。天平9年(737年)に大野東人が約6千人の大軍で出羽国に進出したのも、最終目的は「耕種して穀を貯へ、粮を運ぶ費えを省かむとす」ということにあった。 ところが、一度国家支配体制下にはいり、夷俘・俘囚などとなり、さらに氏姓や位階を授けられた人の間に反抗運動が起こると、鎮守政策だけでは対応できなくなる。その最も早い事例が宇屈波宇らの行動であり、これは蝦夷の第二次抵抗としての反抗ととらえるべきもので、大和勢力やその系統の勢力の進出を最初に迎えた際の戦いとは異なり、個人戦技や小集団の戦術の剛勇さに加味して、中央軍のもたらした唐系や百済系の軍事学の影響を受けた総合戦略や、大部隊戦術に対する理解を持ち、通暁してその裏をかくゲリラ戦を挑むものが現れた、ということである。 宇屈波宇の叛旗を翻す前年の神護景雲3年(769年)正月には、陸奥国からの言上があり、天平宝字3年(759年)の太政官符に基づき、浮浪者を1000人派遣したとあり、同年6月には浮浪の人民を2500人あまりを陸奥国の伊治村に置いた、ともある。技術の未熟な俘囚たちは農地があっても生産力が伴なわず、先進的な技術を持つ移民の農民に農地を明け渡すことになる。以上のような背景があって、宇屈波宇らの反乱や、宝亀5年(774年)の海道の蝦夷の桃生城への侵攻があり、さらには伊治呰麻呂の反乱へと繋がってゆくのであったとしている。
※この「新野直吉の説」の解説は、「宇漢迷公宇屈波宇逃還事件」の解説の一部です。
「新野直吉の説」を含む「宇漢迷公宇屈波宇逃還事件」の記事については、「宇漢迷公宇屈波宇逃還事件」の概要を参照ください。
- 新野直吉の説のページへのリンク