新田原古墳群
名称: | 新田原古墳群 |
ふりがな: | にゅうたばるこふんぐん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 宮崎県 |
市区町村: | 児湯郡新富町・西都市 |
管理団体: | 新富町(昭20・11・19) |
指定年月日: | 1944.11.13(昭和19.11.13) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成8.03.28 |
解説文: | 妻町の東南方に位する標高八十餘米の臺地上に存し圓墳、前方後圓墳、方墳等大小約二百基を算す、就中第四十八號墳、第九十二號墳は壯大なる前方後圓型にして第四十八號墳は長徑約三百十尺、後圓部徑約百七十五尺、高さ約四十尺、前方部幅約百七十五尺、高さ約三十三尺を有し環隍の阯あり 第九十二號墳は長徑約二百八十尺、後圓部徑約百五十五尺、前方部幅約百四十九尺、高さは後圓部前方部略々同じく約二十六尺を有す、共によく舊規模を存せり。 |
新田原古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 08:08 UTC 版)
新田原古墳群 | |
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所在地 |
宮崎県児湯郡新富町大字新田 宮崎県西都市大字右松 |
位置 | 北緯32度6分8.8秒 東経131度25分39.3秒 / 北緯32.102444度 東経131.427583度座標: 北緯32度6分8.8秒 東経131度25分39.3秒 / 北緯32.102444度 東経131.427583度 |
形状 | 円墳、前方後円墳、方墳 |
出土品 | 埴輪、須恵器、鉄鉱、雲珠、石突 |
築造時期 | 3世紀(弥生時代終末期)~6世紀後半(古墳時代後期) |
史跡 | 国の史跡 |
特記事項 | 塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群の総称 |
地図 |
新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)は、宮崎県児湯郡新富町新田と西都市右松にある4つの古墳群の総称である。
概要
一ツ瀬川左岸にある新田原台地(海抜約70m)に円墳、前方後円墳、方墳など大小あわせて207基[1]が確認されている。1944年(昭和19年)11月13日に国の史跡に指定された[2][3]。
「新田原古墳群」という名称は、国による史跡指定時に新田村(現在の新富町)にあった古墳を行政単位で指定措置した結果であるが、2010年(平成22年)現在は、古墳の分布状況や築造時期から4つの古墳群に大別すべきと考えられており、東から塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群と呼ばれている[4]。
祇園原古墳群は、円墳138基、前方後円墳14基、方墳1基、墳形不明1基の合計154基が確認されている[4]。石船古墳群の一部(第42~45号墳)は、1941年(昭和16年)の陸軍飛行場(現在の航空自衛隊新田原基地)建設に伴い、大師山公園に移転(縮尺を5分の1にして改葬)した[1][5]。
1824年(文政7年)8月、天領右松村(現在の西都市)の「佐土原領入田村境界同意書」付図の中に入田村(旧新田村、現在の新富町)と右松村の境界に「セタヲ塚」を確認しており、前方後円墳の前方部分が西都市、後円部が新富町として、当時の境界が現在にも継承されている[1]。
新田原古墳群は新富町が管理し、新富町教育委員会によって発掘調査が行われている。
主な古墳
- 百足塚古墳 - 墳長76.4m、後円部径32m、前方部幅43.6m、クビレ部幅38mの前方後円墳[4]
- 大久保塚古墳
- 弥吾郎塚古墳
- 水神塚古墳
- 機織塚古墳
- 霧島塚古墳
脚注
- ^ a b c 国指定史跡 新田原古墳群 保存管理計画策定書(1990年 新富町教育委員会)
- ^ 昭和19年11月13日文部省告示第1080号(参照:[1])
- ^ 新田原古墳群(文化遺産オンライン)
- ^ a b c 国指定史跡「新田原古墳群」史跡整備にともなう発掘調査概要報告書(13)(2010年3月 新富町教育委員会)
- ^ “お大師山公園と掩体壕”. 新富町職員ブログ. 新富町役場 (2014年3月5日). 2016年2月23日閲覧。
参考資料
- 国指定史跡 新田原古墳群 保存管理計画策定書(1990年3月 宮崎県新富町教育委員会)
- 国指定史跡「新田原古墳群」史跡整備にともなう発掘調査概要報告書(13) 祇園原古墳群(2010年3月 宮崎県新富町教育委員会)
関連事項
外部リンク
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