新墾と辛夷短歌会
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北海道新聞函館支社とポプラに続き、ふみ子が発表の場として選んだのは短歌専門の文芸誌であった。ふみ子は1930年(昭和5年)に小田観螢主催で創刊された、「新墾」に入社した。ふみ子の「新墾」入社時期については1946年、1947年2月、1947年4月の3説がある。ふみ子自身は1946年入社と述べているが、後に「新墾」に書かれたふみ子の略歴には1947年4月となっており、同人の中には1947年2月説を唱えている者もいる。いずれにしてもふみ子の入社時期を明記した文献が見い出されておらず、時期ははっきりとしない。しかし1946年ないし47年に入社したふみ子の短歌はしばらく掲載されることは無かった。ふみ子が詠んだ短歌が初めて「新墾」に掲載されたのは、1948年(昭和23年)2月号であった。 愛憎の入り交じりたるわが膝を枕に何を想へるや夫 これまで詠まれた句よりも対象への凝縮感があり、体言止めを用い表現上の工夫も見られ、当時のふみ子が短歌に本腰を入れ始めたことが見えてくる。なおこの短歌以降から撰ばれた句が、ふみ子の死後、中井英夫によって編纂、発表された第2歌集「花の原型」に掲載されている。ふみ子は1948年2月号以降、毎月のように「新墾」に短歌が掲載されるようになる。なお、1948年5月からは「新墾」の北海道内にある支社のひとつ、帯広の「辛夷短歌会」に入会したと言われているが、これも明確な記録は残っていない。
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