ふみ子の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
ふみ子の訃報は翌朝の北海道新聞、北海タイムス、時事新報などに掲載された。家族や歌友らによる通夜の後、死の翌日の4日、札幌で火葬が行われた。5日には長男の孝が母、ふみ子の遺骨を持ち、家族とともに故郷の帯広に帰った。6日、野江家主催で帯広の西本願寺別院で葬儀が、約350名の参列者を集めて行われた。 ふみ子が所属していた短歌結社、「新墾」、「凍土」とも、追悼特集を組んだ。「短歌研究」は9月号にふみ子の遺詠33首と歌友らの追悼文を載せ、「短歌」もふみ子の死に関する記事を掲載した。中井英夫はふみ子のために第2歌集の編集を始めていた。当初、第2歌集はふみ子の師に当たる小田観螢らにお願いする予定であったが、ふみ子が遺した短歌関連の資料一切が遺族の意向で中井に託され、結局、整理から撰歌、配列、そして表題までの編集全てを中井が行うこととなった。中井は1948年の婚姻時の頃から死の直前に詠んだ遺詠までの中から撰歌し、「花の原型」と題された第2歌集は1955年(昭和30年)4月に刊行された。 第2歌集「花の原型」出版直後、今度は若月彰による、ふみ子とのいきさつをまとめたルポルタージュと若月自身のふみ子論から構成された「乳房よ永遠なれ」が出版された。この「乳房よ永遠なれ」の出版は、大きな波紋を招くことになった。
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