新たなチャレンジマッチとNHLの統一まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:40 UTC 版)
「スタンレー・カップ」の記事における「新たなチャレンジマッチとNHLの統一まで」の解説
1914年には、太平洋岸ホッケー協会 (PCHA、Pacific Coast Hockey Association) 所属のヴィクトリア・アリストクラッツ (Victoria Aristocrats) が、カップ保持チームのトロント・ブルーシャツに対しエキシビジョンによる「非公式の挑戦」を行った。これが起因となって、その1年後(1915年)にNHAとPCHAの間で、リーグ相互の優勝チームがカップを賭けて戦うことについて合意に至り、この合意はおよそ1926年までは有効であった。 スタンレー・カップのシリーズはカナダ東部と西部で毎年交替で開催されたが、NHAとPCHAとで異なるルールについては、試合ごとに双方のルールを交替で適用することとされた。初の「公式」的なカップ決勝は、5連戦シリーズで行われ、3勝0敗でバンクーバー・ミリオネアーズ(Vancouver Millionaires) が優勝した。 1916年には、ポートランド・ローズバッズ (Portland Rosebuds) が、米国のチームとして初めてとなるスタンレー・カップ決勝進出を果した。また、この翌1917年には、米国のチームとして初めてシアトル・メトロポリタンズ (Seattle Metropolitans) が、カップ戦を主催し、優勝を収めた。さらに、この1917年にはNHA の解体という事件があり、NHLがこれに取って代わったのである。 1918年は、スペイン風邪が世界中で猛威を振るい、モントリオール・カナディアンズ(風邪で死亡したジョー・ハル選手が所属)とシアトル・メトロポリタンズの間で行われるはずだったスタンレー・カップの開催が、史上初めて中止を余儀なくされた(この流感の詳細については、後述する。)。 スタンレー・カップ決勝戦の開催形態は、西部カナダホッケーリーグ (WCHL、Western Canada Hockey League)が新設された 1922年まで大幅に変更されることがなく、それまでは2つのリーグ優勝チームが、第3のチャンピオンチームへの挑戦権を賭けて対戦するというものであった。 1924年になって、西部2つのリーグの優勝チーム、すなわちPCHL所属のバンクーバー・マルーンズ (Vancouver Maroons) とWCHL所属のカルガリー・タイガース (Calgary Tigers) のうち1チームのみを東部地区との決勝戦へ送るか、それとも両チームを送るか疑義が持ち上がり、両チームの対戦の勝者は、決勝戦へ無条件で進出し、他方敗者は、モントリオール・マルーンズとの準決勝戦を戦うこととなった。 1925年には、PCHAとWCHAが合併し、新たに西部ホッケーリーグ (WHL、Western Hockey League) が創設されることになったが、このリーグは僅か1年で崩壊し、それ以後はNHLが、スタンレー・カップ戦の包括的な運営を行なうこととなった。
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