換局期の南人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:50 UTC 版)
顕宗の死後、第19代国王として粛宗が即位すると、換局と呼ばれる大胆な政権交代が王命によって断行された。それによって政権の座は南人と西人で揺れ動いていた。 粛宗が即位した当初、政権の座にあったのは南人であった。外戚の金錫冑ははじめ南人に迎合していたが、南人の勢力が増すにつれて自らの立場が危うくなると考えて西人と結託して南人の排除を始めた。そんな中、当時南人の領袖であった許積が宴会を開く際、宮中で使う天幕(個人が私的に使うことは禁じられている)を粛宗の許可を得ずに持ち出した。それを自らの権力に甘んじて王を軽んずるが故の行為だと受け止めた粛宗は南人を辞職させたり追放したりした。(庚申換局) 庚申換局に続いて三福の変が起きた。南人が王族である福昌君、福善君、福平君とともに謀反を企てているとの告発がなされたのである。それにより南人の重鎮は大量に殺害されたり配流された。そして政権は西人が占めるようになった。 南人は下野したが、その間に西人が老論と少論の二派に分かれて対立していた。その隙を見て南人は政権奪還を図ろうとする。粛宗が後宮(側室)とした張氏を支持したのである。一方の西人は正室の仁顕王后を支持。南人が西人と対立している中、粛宗の寵愛を一身に受けていた張氏が1688年に男子・李昀を出産する。粛宗は昀に元子(王位継承権第一位)の称号を与えようとするが、西人がこれに反対する。粛宗が元子称号を強行しようとすると西人は再度反対する。それに憤慨した粛宗は西人を追放する。これに伴って南人が要職を占める形で政権に復帰した。そして正室であった仁顕王后が廃妃され、張氏が代わって王妃の座に就いた。張氏の兄、張希載が目まぐるしく出世していくと、南人は彼と結んで西人の排除に取り掛かった。謀反の企てを告発したうえで西人に加担の罪を着せ、粛清していったのである。(己巳換局) 南人が張氏兄妹と結託して専断していく中、西人は仁顕王后の復位運動を展開する。南人はそれを機に西人を完全に追放しようとするが、張氏への寵愛が薄れていた粛宗から寵愛を受けていた後宮の崔氏の毒殺未遂事件が浮上すると粛宗は突如として覚書を出し、南人を追放して西人を登用した。この時追放された南人は己巳換局の際に粛清された西人よりもはるかに多かった。そして南人の権力は失墜し、2度と政権をとることはなく、官界へと進む道もほとんど閉ざされた。(甲戌換局)
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