慣習法との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 23:42 UTC 版)
既に初期ストア派のクリュシッポスが、ノモス(慣習)とピュシス(自然本性)を対置し、後者を前者に優位させる。ローマ・ストア派の思想に影響されたキケロは、自然法の法源を理性に求めながら次のように述べている。 次はもっとも愚かな見解である。すなわち、国民の習慣や法によって定められていることはすべて正しいと考えることである。僭主の法でも正しいのか。…(中略)…人間の共同体を一つに結びつけている正しさは一つであり、それを定めたのは一つの法であり、この法は命じたり禁じたりする正しい理性だからである。この法を知らないひとは、この法の書かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正な人である。 — キケロ『法律について』第1巻42 トマス・アクィナスは神の意思を自然法の法源としながら、次のように述べる。 自然法ならびに神法は神的意志から発出するものであるから、人間の意志から発出するところの慣習によっては改変されえないものであり、ただ神的権威によってのみ改変されることが可能である。したがって、いかなる慣習といえども神法や自然法に反して法たるの力を獲得することはできない。 — 『神学大全』第2部の1第97問題第3項 グロチウスは自然法と万民法とを区別しながら、万民法とは「時代と慣習の創造である」という。 これに対して、歴史法学派のカール・フォン・サヴィニーは、自然法を各民族について相対化しながら、自然法と慣習法とをかなり接近させる。
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