慣習法としての側面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:25 UTC 版)
律令法と区別される意味での公家法の成立は、直接的には白河上皇に始まる院政において大きな契機を指摘することができよう。もちろん令外の官の成立ははやく9世紀にさかのぼるものであり、また摂関政治を通じて貴族身分内部の再編がおこなわれつづけたのであり、律令体制の質的な変化は院政以前にゆっくりとではあるが進行していたものである。ここでは院政成立の政治史的な問題については触れないが、院政期になると天皇家も独自に家政的な機構を持ち始めるということがあげられる。天皇の内廷とは別個に院政をしいた上皇・法皇のもとには院庁が成立し、摂関家の政所のように内部的な政務を処理するようになる。ここで重要なのはこれら院庁や政所はそれぞれ内部の政務を処理するだけであり、それらのいずれかが直接的に全体的な政務をとりしきったわけではなく、その間の交渉を通じて公家社会の政務が構成されるのである。 律令体制では律令法の規定のもと太政官で政務がおこなわれていたわけであるが、中世においては個々の交渉過程や処理の蓄積が規定となって政務がおこなわれたのであり、それらの蓄積が法的根拠となったのである。ゆえに中世における公家法は慣習法的要素が強いということを指摘することができる。
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