愛国者・活動家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 14:25 UTC 版)
「マッシモ・ダゼーリョ」の記事における「愛国者・活動家として」の解説
教皇グレゴリウス16世の死後はローマに赴き、「覚醒教皇」として近代化に理解を示すピウス9世を熱烈に支持した。また教皇を中心とするイタリア統一を目指すネオグェルフ主義(英語版)の中心人物であったヴィンチェンツォ・ジョベルティとも交流を持ち、ともに革命による統一を目指す急進派を批判した。またイタリアの大都市だけでなくローマ以南の農村地帯にも足を運ぶことで、民衆からの熱烈な支持を獲得していった。この時点で、ダゼーリョはジョベルティ、バルボと並ぶ穏健派の中心人物として知られていた。 第一次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版)では教皇軍に参加し、ヴィチェンツァでの戦闘で重傷を負う。そのため軍人を引退しフィレンツェに逃れるが、『ロマーニャにおける最近の事件』という自由主義的な思想を反映した小冊子を出版したため、トスカーナ大公国から追放される。 その後は第一次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版)継続のための戦時内閣結成をするべく、1849年初めにカルロ・アルベルト・ディ・サヴォイアからサルデーニャ王国首相の打診を受けるが、オーストリア帝国との戦争継続は現実的ではないとして一旦は拒否した。
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