愛国者部隊によるノーフォーク占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 03:45 UTC 版)
「ノーフォーク焼き討ち」の記事における「愛国者部隊によるノーフォーク占領」の解説
12月14日、愛国者部隊は民兵のさらなる到着で約1,200名になっており、ハウとウッドフォードはノーフォークに移動した。ハウ大佐は大陸軍で上級士官となっていたのでウッドフォードより上官であり、占領軍の指揮を執った。ハウはダンモアやイギリス海軍艦長達に対処するに厳しい統制を敷き、人で混み合った艦船に対する物資の供給を止め、捕虜交換では対等に渡り合った。 ハウとウッドフォードはイギリス軍が攻撃してくる可能性も心配しており、まず援軍を要請した。しかしさらに検討を進めると、イギリス艦隊が容易に町周辺を支配し、守備隊を孤立させることができると認識した。バージニア植民地議会には、町を放棄し、敵軍に使われないようにしておくことを推薦した。 12月21日、イギリス海軍のHMSリバプールが到着し、物資や弾薬を積んだ補給船を伴ってきた。ダンモアは艦船のダンモア、リバプール、オッター、キングフィッシャーの4艦を町の水際に並べて威嚇し、町の人々や所有品を脱出させる状況を作った。クリスマスイブの24日、リバプール艦長のヘンリー・ベルーが町に対して最後通告となるものを送り、それには物資を力で奪うよりも金で購うことを好むと記していた。ハウはこの通告を拒み、艦砲射撃に備えさせた。愛国者部隊は水際をパレードしたり、衛兵の交替を行っていたが、12月30日、ベルーはそれが攻撃的だとして止めるよう要求し、また女性子供が町を去ったとしても「軽率ではない」と提案した。ハウは部隊の撤退を拒否し、ベルーには「私は軍人であるので、私の任務と考える点から引くことはできない」と伝えさせた。
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