愛、友人と恋愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:02 UTC 版)
いかなる愛も、共同性において存立する。そして、愛は、「血族的な愛」と「親友仲間の愛」の二つに分類することができる。親は、自分の一部として我が子を愛でる。子の親に対する愛は、「善きもの・優越的なもの」に対する愛という意味を持っている。なお、親は、「存在・養育・教育」の因を成しており、快とか有用とかを多分に有している。また、兄弟の愛においては、親友仲間と同じ諸特性が見出される。夫婦の間に愛の存するのは、本性に則したものと考えられる。家は国に先立つところの、より不可欠的なものであり、生殖はもろもろの動物に通ずる共通的なことがらであっても、人間のもろもろの機能はつとに分化されており男性と女性とではすでにその機能を異にし、生活の要求する万般のことがらを目的とするものだからである(第8巻第12章)。 すべての非類似的な当事者間の愛において、お互いを均等化しその愛を保持するところのものは、「比例的(アナロゴン)」ということに他ならない。同国民の間における代償には、共通の尺度たる貨幣というものが与えられている。しかし、恋愛といったような性質のものになると、そうはいかない。一部の者は、相手の「ひととなり」ではなく、相手を快楽のゆえあるいは有用のゆえに愛しているに過ぎず、自分がまさに「必要とする価値に応じて」関心をもつものである(第9巻第1章)。「有用」とか「快」のゆえに友人たるひとびとのあいだにおいては、お互いがもはやこれらを持たなくなったとき、その愛(フィリア)を解消するにいたるとしても、少しもおかしくはないといえる(第9巻第3章)。 友人は、必要という点からいえば、逆境において有用なひとびとが必要とされる。しかし、うるわしいという点からいえば、順境においてよきひとびとに善を施すことのほうが、より好ましい。本能的に男性的なひとびとは、友人が自分と苦痛を共にしてくれることのないように気をくばるのであって、そうでない人は、嘆きあう仲間を悦ぶ。悪を分与することはできるだけ避くべきである(第9巻第11章)。恋愛しているひとびとにとっては、自分の恋人を見るということが望ましいことであり、親しい相手と「生を共にする」ということが何よりも好ましいのではないか。愛(フィリア)とは自他の共同なのである(第9巻第12章)。
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