応永の武田信満滅亡
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応永24年2月6日(1417年2月22日)、室町幕府将軍足利義持の命令を受けた上杉憲宗の侵攻に加えて、武田氏庶流で代々守護代を務めた逸見氏当主・逸見有直の謀叛にあった甲斐守護武田信満はこの地に追い詰められて山中で自害したという。信満は前年に鎌倉府に対して反乱を起こした上杉禅秀の縁戚であり、この反乱軍に加担して鎌倉公方足利持氏や上杉房方・今川範政らと戦って敗北して逃げ帰ったところ、有直が次期甲斐守護職への就任と引換に持氏側に内応した。それを受けて上杉憲宗が討伐したものであったと『鎌倉大草紙』に伝えられている。 棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。 なお、持氏は約束通り有直を守護にしようとしたが、将軍・義持はこれを許さず、甲斐の管轄権を鎌倉府から取り上げて乱の時に京都にいたために捕らえられて出家させられた信満の嫡男である道成を還俗させ、次期守護にするように命じた。道成は武田信重と名乗って義持の命を受けた小笠原政康の支援で甲斐に帰国するものの、既に守護を自称していた有直は信重を認めずこれを排除し、以後甲斐は100年近くにわたる内紛の時代を迎えることになる。
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