応永の武田信満滅亡とは? わかりやすく解説

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応永の武田信満滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 19:12 UTC 版)

天目山」の記事における「応永の武田信満滅亡」の解説

応永24年2月6日1417年2月22日)、室町幕府将軍足利義持命令受けた上杉憲宗侵攻加えて武田氏庶流代々守護代務めた逸見氏当主逸見有直の謀叛にあった甲斐守護武田信満はこの地に追い詰められ山中自害したという。信満は前年鎌倉府に対して反乱起こした上杉禅秀縁戚であり、この反乱軍加担して鎌倉公方足利持氏上杉房方今川範政らと戦って敗北して逃げ帰ったところ、有直が次期甲斐守護職への就任引換に持氏側に内応した。それを受けて上杉憲宗討伐したものであったと『鎌倉大草紙』に伝えられている。 棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔存在している。 なお、持氏は約束通り有直を守護にしようとしたが、将軍義持はこれを許さず甲斐管轄権鎌倉府から取り上げて乱の時に京都にいたために捕らえられ出家させられた信満の嫡男である道成を還俗させ、次期守護にするように命じた。道成は武田信重名乗って義持の命を受けた小笠原政康支援甲斐帰国するものの、既に守護自称していた有直は信重を認めずこれを排除し以後甲斐100年近くにわたる内紛時代迎えることになる。

※この「応永の武田信満滅亡」の解説は、「天目山」の解説の一部です。
「応永の武田信満滅亡」を含む「天目山」の記事については、「天目山」の概要を参照ください。

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