応永の安芸国人一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/04 13:29 UTC 版)
周防国・長門国を支配していた大内氏は、安芸にも勢力を拡大して安芸武田氏を圧迫、奪った領地の一部を安芸の国人たちに与えるなどして大きな影響力を持った。やがて、2代将軍の足利義詮が大内氏の防長両国の守護を認めたため、大内氏は幕府に帰順する。しかし、防長2ヶ国に加えて石見国・豊前国・和泉国・紀伊国の守護となっていた大内義弘は3代将軍足利義満の不興を買い、応永6年(1399年)に応永の乱が勃発。この戦いでは義満方が勝利したものの、応永8年(1401年)までには義弘の弟である大内盛見が幕府の処分に抵抗して勢力を盛り返したことから、大内氏は引き続き周防・長門・豊前・筑前の守護として認められていた。 一方、応永10年(1403年)に山名満氏が安芸守護に任じられるが、かつて大内氏から与えられていた所領が没収されることを恐れた安芸の国人たちは山名氏に抵抗した。山名軍は有力な国人のひとりである平賀氏を攻めて平賀弘章が籠る御薗宇城を包囲するが、国人たちの多くは平賀氏を支援した。そして、毛利氏・熊谷氏・宍戸氏・小幡氏などの国人ら33人が、応永11年(1404年)9月23日に結んだのが5か条から成る「安芸国人一揆契状」であった。これにより、御薗宇城は3年に及ぶ長期戦に持ちこたえ、平賀氏は多くの犠牲者を出しながらも山名軍の撃退に成功した。最終的に安芸国人衆は、介入してきた幕府に従うこととなったが、安芸の統治に失敗した満氏は守護識を罷免されている。
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