応永15年の南蕃船とは? わかりやすく解説

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応永15年(1408年)の南蕃船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 21:26 UTC 版)

亜烈進卿」の記事における「応永15年1408年)の南船」の解説

亜烈進卿」の名は、「若狭国税所今富名領主代々次第」において小浜に「南船」が到着したという記録中に登場する当時日本人は「南蛮(南)」を漠然と中国・朝鮮以外の国と認識していた。 応永十五六月二十二日南船着岸、帝王御名亜烈進卿使使臣問丸本阿、彼帝より日本国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了 — 若狭国税所今富名領主代々次第 応永15年6月22日ユリウス暦1408年7月15日)に小浜に南船が着岸した。この船を派遣したのは「亜烈進卿という名の帝王」である。この船に乗っていた使節は、問丸本阿弥宿所とした。「亜烈進卿」から「日本国王」への進物として、生きた黒い象や、孔雀などを含む動物などをもたらした江戸時代前期成立した若狭郡県志』には、この使節は象などを連れて京に上り将軍足利義持献上したという。7月使節入京したことについては『東寺王代記』『武家年代記』和漢合符』に記録がある。 『若狭郡県志』によれば使命終えた使節11月になって小浜から出港した。しかし、上述若狭国税所今富名領主代々次第」にもあるように、11月18日にこの船は中湊浜に嵐に遭って打ち上げられた。彼らは翌応永16年に船を新造して「渡唐」した。

※この「応永15年(1408年)の南蕃船」の解説は、「亜烈進卿」の解説の一部です。
「応永15年(1408年)の南蕃船」を含む「亜烈進卿」の記事については、「亜烈進卿」の概要を参照ください。

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