応永15年(1408年)の南蕃船
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「亜烈進卿」の記事における「応永15年(1408年)の南蕃船」の解説
「亜烈進卿」の名は、「若狭国税所今富名領主代々次第」において小浜に「南蕃船」が到着したという記録の中に登場する。当時の日本人は「南蛮(南蕃)」を漠然と中国・朝鮮以外の国と認識していた。 応永十五年六月二十二日南蕃船着岸、帝王の御名亜烈進卿、蕃使使臣問丸本阿、彼帝より日本の国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了 — 若狭国税所今富名領主代々次第 応永15年6月22日(ユリウス暦1408年7月15日)に小浜に南蕃船が着岸した。この船を派遣したのは「亜烈進卿」という名の「帝王」である。この船に乗っていた使節は、問丸の本阿弥を宿所とした。「亜烈進卿」から「日本国王」への進物として、生きた黒い象や、孔雀などを含む動物などをもたらした。 江戸時代前期に成立した『若狭郡県志』には、この使節は象などを連れて京に上り、将軍足利義持に献上したという。7月に使節が入京したことについては『東寺王代記』『武家年代記』『和漢合符』に記録がある。 『若狭郡県志』によれば、使命を終えた使節は11月になって小浜から出港した。しかし、上述「若狭国税所今富名領主代々次第」にもあるように、11月18日にこの船は中湊浜に嵐に遭って打ち上げられた。彼らは翌応永16年に船を新造して「渡唐」した。
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