応永21年築城説について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 15:21 UTC 版)
矢板市公式ホームページや『矢板市史』の年表には、応永21年(1414年)に山田城築城とあるが、この根拠はいかなるものか不明である。また、他の矢板市刊行物の年表には全く出てこず、同じ矢板市史の山田城の記述とすら全く異なっている。このため、矢板市史の年表では、那須氏の歴史と併記して表記されているため、この山田城築城は、那須領片田の山田城の築城と誤解したものではないかとも考えられている。 その一方で、この年に近隣の沢村城で、那須内紛の戦が行われているため、この頃に、これに備えて那須との境界にある山田城が整備され、詰め城である山城部が築かれたのではないかとする説があり、これを支持した矢板市史の編纂者が、年表に載せたとする話もある。
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