循環線建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:38 UTC 版)
会社設立後、博多電気軌道は1910年(明治43年)7月に福岡市内や博多駅前への軌道敷設特許を追加で取得。市街地の周囲を循環する環状線の建設を目指し、翌1911年(明治44年)10月2日にその西半分にあたる、博多駅前停留場から天神町停留場を経て取引所前停留場へと至る区間をまず開業させた。次いで同年11月15日には取引所前から先、豊平停留場(後の大学通)まで延伸し、翌1912年(明治45年)1月30日には循環線と吉塚駅を連絡する、三角停留場への支線も開業させた。こうして博多駅前から吉塚駅前(三角)へ至る路線が完成したものの、循環線としては全体の約4分の3が開業しただけで、残余区間は用地買収の難航から開業が遅れた。 先に開業した福博電気軌道が県・市が建設した道路に軌道を敷設したのとは対照的に、博多電気軌道では取締役の渡辺与八郎が取得した私有地に道路を建設し、そこに軌道を敷設していた。その渡辺が開業直後の1911年10月29日に、当時九州で炭鉱労働者を中心に原因不明の風土病として恐れられていたワイル病により46歳で急死すると、会社では顕彰の意味を込めて道路の一部を「渡辺通り」と命名している。 吉塚延伸後の1912年7月1日、当初から計画していた貨物営業を開業した。貨物線の区間は国鉄吉塚駅構内から博多港の博多築港停留場までで、既設市街線の軌間は1,435ミリメートルであるのに対し貨物線は国鉄線から貨車を直通させる目的で1,067ミリメートル軌間を採用したことから、市街線と貨物線が重なる幾世町までの区間は三線軌条とされた。この貨物線は鉄道駅と駅から離れた港を結ぶ臨港線の役割を担っており、国鉄線(後に筑前参宮鉄道線も追加)と直通する貨車を自社の専用車両で牽引するという運行形態を採った。
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