後期加納城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:14 UTC 版)
関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城のものが用いられ、解体した岐阜城天守の部材を二ノ丸御三階櫓に転用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。 寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井直陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。
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