後の家康を救ったと伝わる教え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:55 UTC 版)
「大樹寺」の記事における「後の家康を救ったと伝わる教え」の解説
寺の言い伝えによれば、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ。しかしついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭した。これによって元康は、生き延びる決意を固めた。 元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空城となった古巣の岡崎城にたどりついたとされる。 しかし、桶狭間の戦いの直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったという記録を有する資料は存在しない。また、近年では岡崎城への帰還は織田勢に備えるために今川氏の許しを得たものであったとする説もある。
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