建設ルート変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:30 UTC 版)
このあと御来屋-八橋間の建設工事中に、帝国議会はルート変更を決めた。変更後のルートは「境港-米子-鳥取-和田山-福知山」となった。日露戦争を見据えた帝国議会が軍事上の最優先路線として、大阪と舞鶴軍港を結ぶルートの建設を急ぐことになり、これと連結することで姫路・大阪・舞鶴・鳥取・境港といった軍事拠点が一挙に連絡できるからである。また、まもなく米子から今市(出雲市駅)までの延長も決まった。さらに鉄道国有法によって、全路線が国有化されることになった。このときから、今市・香住間を「山陰西線」、香住・福知山間を「山陰東線」と称するようになり、「西線」の工事指揮のため米子に出張所が置かれた。この出張所が米子鉄道局に発展した。 御来屋から東を目指す建設工事は、日露戦争中に一時的に中断があったものの急ピッチで進められた。このうち倉吉付近のルート選定については諸説ある。建設ルートは、倉吉市中心部を通るわけでもなく、江戸時代からこの地方の水運の拠点であった橋津(現在の湯梨浜町沿岸部)を通るわけでもなく、両者の中間である上井に倉吉駅が造られた。これは最短路というわけでもなく、迂回ルートとなっている。『鳥取県史』では、このルートは鉄橋やトンネルの建設が最小限で済む低コストのルートであったと説明している。 「東線」に相当する区間では、京都鉄道が1899年(明治32年)までに京都駅 - 園部駅間を、園部駅 - 綾部駅間を国が建設した。福知山駅 - 綾部駅間は阪鶴鉄道の路線を延伸する形で舞鶴までを結ぶ阪鶴線の一部として1904年に開業した。京都鉄道・阪鶴鉄道の両社は国有化され、京都駅 - 綾部駅間が京都線として1910年に開通した。
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