庾希討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)
権力を掌握した桓温は罷免や異動といった人事を次々行った。武陵王司馬晞はよく武芸に励んでおり、また太宰という要職についたので、かねてより桓温は疎ましく思っていた。その為、重税で民を苦しめて賄賂政治を行い、また密かに亡命を企んでいるとして司馬晞を弾劾し、彼と子の司馬綜・司馬㻱を免官とし、彼らを封地へ送還した。さらに、新蔡王司馬晃に嘘の自白をさせ、司馬晞と司馬綜が著作郎殷涓・太宰長史庾倩・散騎常侍庾柔・曹秀らと共に謀反を企んでいたとして、廷尉に処刑するよう命じた。簡文帝はこれを許さなかったので司馬晞と司馬綜だけは庶民に落とすのみに留め、庾倩らは皆族誅となった。これにより桓温の勢威は大いに高まった。 潁川の庾氏は名門の家柄であり、朝廷の重臣を数多く輩出していたので、桓温は彼らをかねてより怨んでいた。庾倩・庾柔らが誅殺されると、一族の庾希は弟の庾邈と子の庾攸之を伴って海陵に逃亡し、従兄弟である青州刺史武沈を頼った。武沈は密かに物資や兵士を庾希に支給した。 咸安2年(372年)、桓温は庾希らの逃亡を知ると、軍を派遣して捜索を命じた。庾希は武沈の子の武遵と共に海岸に兵を結集させて船舶を略奪すると、夜に乗じて京口へ攻め入り、晋陵郡太守卞耽を追い払った。彼らは刑務所を解放して数百人の囚人を解放して武具を与え、桓温討伐の詔勅を密かに受けていると公言した。卞耽は曲阿へ逃げると、諸県の兵2000を集めて反撃し、庾希は城に籠った。桓温は東海郡太守周少孫に庾希討伐を命じた。周少孫は京口で賊軍を破り、庾希らを捕縛した。庾希を始め、庾邈・武遵・その子や侄・配下の将兵に至るまで尽く処断され、建康に送られた。
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