庾亮・王導の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
その後明帝は皇帝の権力の強化を図るが、325年に若くして崩御した。その際明帝は後継者に幼い息子の司馬衍(成帝)を指名し、王導・庾亮・温嶠らに輔政せよとの遺詔を発した。3人のうちで庾亮は明帝の皇太子時代に侍講を務め、妹が皇后となって寵愛を受けた人物だったため、成帝即位後は外戚として重きをなし、朝政を専断するようになった。庾亮は厳格な法治主義を行ったため、王導の穏健政策と真っ向から対立し、人心を次第に失った。 庾亮の施政には軍人の祖約や蘇峻らからも不満が高まり、327年には庾亮が蘇峻の軍権を解いて自らの弟に与えようとしたため、遂に不満が爆発して蘇峻は祖約や西陽王司馬羕まで巻き込んでの反乱を起こした(蘇峻の乱)。歴陽で挙兵した蘇峻は一気に建康に迫り、ここで大規模な略奪を行って放火した。しかし肝心の庾亮を取り逃がし、蘇峻は建康で無闇に人民を襲っては苦しめたため、かえって人心を失った。 江州に逃れた庾亮は、温嶠や陶侃・郗鑒らと協力して反乱鎮圧にあたり、329年に石頭攻防戦で蘇峻軍を大いに破って蘇峻を斬り、反乱を平定した。しかしこの反乱で建康は荒廃し、遷都するべきという議が起こった。候補地は豫章か会稽であったが、王導が強硬に反対したために沙汰止みとなり、以後は王導が東晋を主導した。 だが339年に王導が、340年には庾亮が死去し、344年には庾冰、345年には庾翼、346年には何充といった有力人物が相次いで死去する。そして成帝が342年に崩御し司馬岳(康帝)が即位するが、康帝は344年に崩御し司馬聃(穆帝)が即位する。
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