店と暖簾分け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:38 UTC 版)
和歌山へ出店した後も伏見・京町の店舗は残されて総本家と呼ばれており、京都側から見れば和歌山にも出店した形となっていた。 そのため、法人化の際も和歌山の本店とは別に「京都伏見総本家駿河屋」として設立され、1946年(昭和21年)に「駿河屋食品工業」と合併して経営統合している。 1781年(天明元年)に「伏見京橋・駿河屋」が諸大名の休息所として分家して伏見・油掛町に開業し、1811年(文化8年)に「大阪・駿河屋」が伏見・油掛町から次男の岡本善三郎が分家して大阪・淡路町一丁目(現在の大阪市中央区)東南角に開業、1818年(文政元年)に京都の「するがや祇園下里」が「総本家駿河屋」の別家として暖簾分けして開業するなど江戸時代には一族の分家による暖簾分けが行われた。 そのほか、「大阪・駿河屋」に勤めた初代鳳惣助が主人に認められて暖簾分けをされて大阪・心斎橋で開業した後に堺・甲斐町(現在の堺市)に移った「堺・駿河屋」や祇園末吉町の「するがや祇園下里」より分家して暖簾分けされて明治中期に開業した京都の「先斗町・駿河屋」など、分家からさらに分かれて「駿河屋」を暖簾を継承しているところもある。 それ以外にも、1868年(明治元年)に総本家から暖簾分けした京都の「京三条・駿河屋」、1934年(昭和9年)に暖簾分けされた京都の「二条・駿河屋」のように明治以降にも暖簾分けが行われている。 この様に、「駿河屋」は多くの分家や別家を持つようになった。 また、1886年(明治19年)には京都駅前に出店するなど本店以外にも店舗を展開した。
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