庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設とは? わかりやすく解説

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庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設」の解説

宝暦5年10月1日1755年11月4日)、郡上藩役人らが郡上藩境の母野庄屋帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改め実務を行う庄屋帰還阻止しているのは不届きであると通告した同日郡上藩寺社奉行である根尾左衛門からも母野集結していた農民らに騒動止めるよう書状送られたが、農民たちは那留村右衛門家来文六を使い出して書状寺社奉行送り返した使いとなった文六は縄手錠をかけられ那留村右衛門預け処分となった宝暦5年10月7日1755年11月10日)、寺社奉行根尾左衛門は各宗門改め実施正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各寺院対し宗門改め実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動止めるように説得するよう伝えた宝暦5年10月15日1755年11月18日)、庄屋120名が母野にやって来て宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還阻止した。翌1617日も5、6000人と伝えられる農民母野集結して庄屋帰還阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日1755年11月26日)には、郡上郡南部である下川筋の庄屋ひそかに帰還し宗門改め行ったその後母野農民たちの間で、庄屋不在によって宗門改め実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動終結した庄屋郡上郡内に帰還した頃には藩による弾圧強化されたため、母野集結していた農民たちは郡上藩外の関(現関市)の新長谷寺付近に家を借り活動拠点を移すことにした。関寄合所呼ばれようになった新たな拠点は、新長谷寺門前町として賑わい人々往来盛んな関にあるため、郡上農民らの出入り目に付きにくかった。また郡上からも比較近く交通の要衝にあるため、郡上江戸との連絡にも便利であった宝暦8年1758年)の郡上一揆解決まで、関寄合所郡上藩弾圧から逃れる避難所として利用されるとともに江戸からの情報は藩や一揆に反対する寝者による情報操作警戒して、必ず関寄合所通じて郡上伝えられることにするという情報統制行い文字通り郡上江戸とを繋ぐ中枢の役割担った

※この「庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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