庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設
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「郡上一揆」の記事における「庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設」の解説
宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。同日、郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門からも母野に集結していた農民らに騒動を止めるよう書状が送られたが、農民たちは那留村丹右衛門家来文六を使いに出して書状を寺社奉行に送り返した。使いとなった文六は縄手錠をかけられ、那留村丹右衛門家預けの処分となった。 宝暦5年10月7日(1755年11月10日)、寺社奉行根尾甚左衛門は各村に宗門改めの実施を正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各村の寺院に対し、宗門改めの実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動を止めるように説得するよう伝えた。 宝暦5年10月15日(1755年11月18日)、庄屋約120名が母野にやって来て、宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得を行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還を阻止した。翌16、17日も5、6000人と伝えられる農民が母野に集結して庄屋帰還を阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日(1755年11月26日)には、郡上郡の南部である下川筋の庄屋はひそかに帰還して宗門改めを行った。その後母野の農民たちの間で、庄屋の不在によって宗門改めを実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動は終結した。 庄屋が郡上郡内に帰還した頃には藩による弾圧が強化されたため、母野に集結していた農民たちは郡上藩外の関(現関市)の新長谷寺付近に家を借り、活動拠点を移すことにした。関寄合所と呼ばれようになった新たな拠点は、新長谷寺の門前町として賑わい人々の往来が盛んな関にあるため、郡上の農民らの出入りが目に付きにくかった。また郡上からも比較的近く、交通の要衝にあるため、郡上、江戸との連絡にも便利であった。 宝暦8年(1758年)の郡上一揆解決まで、関寄合所は郡上藩の弾圧から逃れる避難所として利用されるとともに、江戸からの情報は藩や一揆に反対する寝者による情報操作を警戒して、必ず関寄合所を通じて郡上に伝えられることにするという情報統制を行い、文字通り郡上と江戸とを繋ぐ中枢の役割を担った。
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