広島のコーチとして
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山本浩二・達川晃豊政権下(達川自身も山本政権下での現役時代、大下から厳しくノックを浴びせられた)でヘッドコーチを務めていた時代は『鬼軍曹』として恐れられ、達川曰く「胃から汗が出る」と形容するほどの猛練習を若手に課していた。その猛練習により野村謙二郎、前田智徳、緒方孝市、江藤智、東出輝裕、新井貴浩といった多くの選手が育成されたことも事実である。駒大の後輩・野村謙二郎を徹底的にシゴき、野村は「このままじゃ殺されます」と泣き言を言っていたが、高橋慶彦は「それは期待の裏返しでもあった。俺が古葉さんに見込まれて鍛え上げられたように。大下さんの猛ノックのおかげで1番・ショートで使える目途が立った野村を見て、俺のカープでの務めは終わったと感じた」と話している。金本知憲は「大下剛史ヘッドコーチに怒られるのが怖くて、(盗塁を)ちゅうちょすることが多かった。」と語っている。新井貴浩は「特に目をかけてもらっていた」と話している。反面、内川聖一のように持病(骨嚢腫)からその猛練習に不安を感じ、入団拒否を表明した選手もいた。 また、選手の野球に対する姿勢に対しても厳しく、ヘッドコーチに就任した1988年オフの日南キャンプ、若手がグラウンドでランニングしている最中、唐突に若手選手のグラブを1個ずつ点検し始めると、「これは誰のグラブだ!!」という怒声と共に、きちんと手入れのなされていない大下モデルの榊原聡一郎のグラブを球場の外に向かって思い切り放り投げた。それを見ていた選手一同は戦々恐々としていたが、観客は爆笑の渦に巻き込まれていた。また、達川政権時代に2度目のヘッドコーチを務めた時は、投内連携のできていない選手を一喝する光景が見られ、反省の意味を込め、自主的に丸坊主にする選手が目立った(河野昌人など)。 1度目のヘッドコーチ時代のある時に川口和久、金石昭人、白武佳久、川端順の4人組が門限破りの朝帰りをしたところ、当時名古屋場所の開催時期であり丁度広島も名古屋遠征中であったため九重部屋の朝稽古に連れて行き、御馳走された昼のちゃんこが食べられないほど4人を疲労困憊させたというエピソードもある。
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