平賀朝雅と重保の争い
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「畠山重忠の乱」の記事における「平賀朝雅と重保の争い」の解説
元久元年(1204年)11月4日、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠の嫡子重保との間で言い争いとなり、周囲の取りなしで事は収まったが、これが後に大きな争いの火種となる。翌5日、重保と共に上洛していた北条時政と後妻牧の方鍾愛の子・政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。 翌元久2年(1205年)4月11日、鎌倉に不穏な形勢ありとして御家人たちが集まりはじめ、所領の武蔵国に隠居していた稲毛入道重成が舅の時政に呼ばれ、郎党を引き連れて鎌倉へやって来た。何か起こるのではないかとの噂が流れたが、この騒ぎは静まり5月3日には大半の御家人が帰国した。 6月21日、朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えた。朝雅は牧の方の娘婿であり、重保は時政の先妻の外孫にあたる。時政が子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすがはずがないと反対したが、牧の方の兄大岡時親に「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られ、やむなく義時は重忠討伐に同意したという。 翌22日早朝、鎌倉は大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走った。同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた重保も郎従3人と共に由比ヶ浜へ駆けつけると、時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませる。自分が謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢で郎党共々殺害された。時政の命により、鎌倉へ向かっている重忠を道中で誅殺するべく大軍が派遣された。大手の大将軍北条義時に従ったのは先陣・後陣に葛西清重・堺常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤、そのほか足利義氏、小山朝政・三浦義村・三浦胤義・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱・八田知重・安達景盛・中条家長・苅田義季・狩野介入道・宇佐見祐茂・波多野忠綱・松田有経・土屋宗光・河越重時・河越重員・江戸忠重・渋河武者所・小野寺秀通・下河辺行平・薗田成朝、ならびに大井氏・品河氏・春日部氏・潮田氏・鹿島氏・小栗氏・行方氏、児玉党・横山党・金子党・村山党らが従い、関戸(多摩市関戸)の大将は北条時房・和田義盛として鎌倉を出陣した。
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