平賀朝雅と重保の争いとは? わかりやすく解説

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平賀朝雅と重保の争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 10:19 UTC 版)

畠山重忠の乱」の記事における「平賀朝雅と重保の争い」の解説

元久元年1204年11月4日、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠の嫡子重保との間で言い争いとなり、周囲取りなしで事は収まったが、これが後に大きな争い火種となる。翌5日、重保と共に上洛していた北条時政後妻牧の方鍾愛の子・政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争い報告同時に鎌倉に届く。 翌元久2年1205年4月11日鎌倉不穏な形勢ありとして御家人たちが集まりはじめ、所領武蔵国隠居していた稲毛入道重成が舅の時政呼ばれ郎党引き連れて鎌倉へやって来た。何か起こるのではないかとの噂が流れたが、この騒ぎ静まり5月3日には大半御家人帰国した6月21日、朝雅は重保に悪口受けた牧の方讒訴し、牧の方はこれを重忠父子叛意であると時政訴えた。朝雅は牧の方娘婿であり、重保は時政先妻外孫にあたる。時政が子の義時と時房に重忠討伐相談すると、2人は重忠の忠勤訴えて謀反など起こすがはずがない反対したが、牧の方の兄大岡時親に「牧の方継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られやむなく義時は重忠討伐同意したという。 翌22日早朝鎌倉大きな騒ぎとなり、軍兵謀反人誅するべく由比ヶ浜先を争って走った。同じ秩父氏稲毛入道招かれ鎌倉にいた重保も郎従3人と共に由比ヶ浜駆けつけると、時政意を受けた三浦義村佐久間太郎らに重保を取り囲ませる自分謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢郎党共々殺害された。時政の命により、鎌倉向かっている重忠を道中誅殺するべく大軍派遣された。大手大将軍北条義時従ったのは先陣後陣葛西清重・堺常秀・大須賀胤信国分胤通相馬義胤東重胤そのほか足利義氏小山朝政三浦義村三浦胤義長沼宗政結城朝光宇都宮頼綱八田知重安達景盛中条家長苅田義季・狩野介入道宇佐見祐茂・波多野忠綱松田有経・土屋宗光・河越重時河越重員江戸忠重・渋河武者所小野寺秀通・下河辺行平・薗田成朝ならびに大井氏品河氏春日部氏潮田氏鹿島氏小栗氏行方氏、児玉党横山党金子党・村山党らが従い関戸多摩市関戸)の大将北条時房和田義盛として鎌倉出陣した

※この「平賀朝雅と重保の争い」の解説は、「畠山重忠の乱」の解説の一部です。
「平賀朝雅と重保の争い」を含む「畠山重忠の乱」の記事については、「畠山重忠の乱」の概要を参照ください。

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