峰山藩の動向とは? わかりやすく解説

峰山藩(峰山)の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 20:58 UTC 版)

丹後ちりめん」の記事における「峰山藩峰山)の動向」の解説

丹後ちりめんの創織は、わずか191万石余の貧し小藩であった峰山藩には、渡りに船だった。峰山藩藩主であった京極氏絹屋佐平治高く評価し1730年享保15年)、一介小機屋にすぎなかった佐平治森田治兵衛改名させ、名字帯刀許し、「お召ちりめんや」の紺染めののれんと「ちりめんや」の屋号与えて厚遇した佐平治48歳の時である。領民には「縮緬職業の儀は当所第一の業柄」として、積極的に治郎兵衛からちりめん習い織ることを奨励し抜け売りや地売り闇取引などの不正を禁じて、藩自ら生産品質管理運営した。これら藩の保護政策ため、峰山藩では縮緬品質が向上・維持された。1789年天明9年)に刊行された『絹布重宝記』では、丹後ちりめんは「丹後縮緬全体糸のよりわかく紋ひくし、絹の性も柔なり、万事屋形縮緬似たる品多し、地性余り強くはなし、中にも不勝絹は着用して毛むく立なり、加屋・宮津より出るもの至て下品なり」と酷評されているが、峰山産のものに関して高く評価されている。峰山城下町織機は、1762年宝暦12年8月には約90台にのぼり、1868年明治元年)には約160台にまで発展した佐平治居住していた中町は、1872年明治2年)に地名を「織元」と改め、現在その場所には「丹後ちりめん始祖森田治兵衛発祥地」と記す石碑建てられている。

※この「峰山藩(峰山)の動向」の解説は、「丹後ちりめん」の解説の一部です。
「峰山藩(峰山)の動向」を含む「丹後ちりめん」の記事については、「丹後ちりめん」の概要を参照ください。

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