峰山藩(峰山)の動向
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「丹後ちりめん」の記事における「峰山藩(峰山)の動向」の解説
丹後ちりめんの創織は、わずか19カ村・1万石余の貧しい小藩であった峰山藩には、渡りに船だった。峰山藩の藩主であった京極氏は絹屋佐平治を高く評価し、1730年(享保15年)、一介の小機屋にすぎなかった佐平治を森田治郎兵衛と改名させ、名字帯刀を許し、「お召、ちりめんや」の紺染めののれんと「ちりめんや」の屋号を与えて厚遇した。佐平治、48歳の時である。領民には「縮緬職業の儀は当所第一の業柄」として、積極的に治郎兵衛からちりめんを習い織ることを奨励し、抜け売りや地売り、闇取引などの不正を禁じて、藩自ら生産や品質を管理運営した。これら藩の保護政策ため、峰山藩では縮緬の品質が向上・維持された。1789年(天明9年)に刊行された『絹布重宝記』では、丹後ちりめんは「丹後縮緬、全体糸のよりわかく紋ひくし、絹の性も柔なり、万事唐屋形縮緬に似たる品多し、地性余り強くはなし、中にも不勝絹は着用して毛むく立なり、加屋・宮津より出るもの至て下品なり」と酷評されているが、峰山産のものに関しては高く評価されている。峰山城下町の織機は、1762年(宝暦12年)8月には約90台にのぼり、1868年(明治元年)には約160台にまで発展した。 佐平治の居住していた中町は、1872年(明治2年)に地名を「織元」と改め、現在その場所には「丹後ちりめん始祖森田治郎兵衛翁発祥地」と記す石碑が建てられている。
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