岩下貞融とは? わかりやすく解説

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岩下貞融

読み方いわした さだあき(さだみち)

江戸後期国学者信州善光寺楽人本姓滋野、号は桜園・管山、字は会侯、通称多門冢田大峯清水浜臣らに学ぶ。慶応3年(1867)歿、67才。

岩下貞融

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/05 14:36 UTC 版)

岩下 貞融(いわした さだみち、享和元年(1801年)1月14日 - 慶応3年(1867年)9月10日)は、江戸時代後期の国学者歴史家である。本姓は滋野、号は桜園(おうえん)または菅山。字は会侯(のりまろ)。通称は多門。[1]善光寺町第一の学者として知られる。[2]

岩下貞融『義僕伝蔵伝』。4行目、貞融に「さだみち」とふりがながある。

名前の読み方

貞融の読みを「さだあき」とするのが散見されるが、「さだみち」が正しい。なぜなら、自著の「義僕伝蔵伝」(弘化4年)で「貞融」に「さだみち」とふりがなを振っているからである(画像を参照)。また、昭和51年(1976年)に建てられた長野市横沢町にある岩下貞融の碑の文章にも、「サダミチ」とルビが振られている。[1]

生涯

商人である岩下貞諒の子として信濃善光寺大門町に生まれる。11歳でに善光寺大勧進の寺侍となり、文政3年(1820年)に名古屋冢田大峯に学ぶ。次いで京都頼山陽に学び、翌年善光寺に帰る。文政5年(1822年)には江戸に行き、清水浜臣に学んだ。[3]

和漢の学に通じ、和歌・詩文・国学関係の多くの著書をなした[4]。また、善光寺の歴史や古典籍の注釈などにも豊富な知識を有し[5]、詩歌書画も能くした。雅楽を奏する楽人でもあった[4]。近世善光寺を代表する学者で、伴信友黒川春村、『江戸繁昌記』で有名な寺門静軒等多くの学者とも交流を持った。

小林一茶を世に出した人々の一人であり、羽田墨芳の『一茶発句集』(嘉永版)に序文を寄せて、一茶を称えている。また漢詩文集『桜園雨後』では、一茶の「松陰に寝てくふ六十余州哉」を、神社の幟用に「松陰于寝食六十有余州」と作り変えている。[2]

きわめて多数の著作があったが、弘化4年(1847年)の善光寺大地震で多くの著作が失われてしまい、現存するものは少ない。この時、岩下は父祖伝来の太刀、琵琶をはじめ、岩下文庫の書籍およそ5000巻を焼失したという。[3]

慶応3年(1867年)死去。享年67歳。法名「菅山院釈敬道桜園居士」。墓は長野市の康楽寺にある。[3]

また、善光寺西の横沢町の旧居跡に、「桜園岩下貞融顕彰碑」が建てられている。[1]

著書

  • 『善光寺史略』
    • 善光寺についての初めての研究書。[5]善光寺の歴史を編年体で記したもの。史料をそのまま掲げ、「貞融曰」として著者の考察を加えている。引用書目は、善光寺縁起、記紀をはじめ70数種にも及び、著者の博識ぶりをうかがわせる。[6]
  • 『善光寺別当伝略』
    • 『天八衢』の末尾にある「桜園著書目録」に「二巻」とあるが、現存するのは一巻である。若麻績東人善光より、権僧正尭淳に至るまでの大勧進別当伝記[6]
  • 『芋井三宝記』
    • 本来24巻からなる大著で、善光寺に関する総合研究書として注目すべきものであるが、惜しくも善光寺大地震で失われ、先頭の6巻を残すのみとなった。[6]
  • 『不繋舟(つながぬふね)』
    • 3巻。和文和歌集。和文53編、和歌277首を収める。「つながぬ舟」とは、江戸における岩下の仮寓の名であった。隅田川に浮かぶ「つながぬ舟」は、朝に上野の丘にあるかと思えば、夕べには竹芝の浦に釣る、岩下の自由気ままな生活の象徴であった。岩下の文と歌を集めたものは、本来『桜園集』10巻、『桜園外集』6巻であったが、善光寺大地震で失われてしまったため、『不繋舟』としてまとめたのだという。安政5年(1858年)出版。[6]
  • 『桜園雨後』
    • 4巻2冊。漢文詩集。巻1は文化13年(1816年)より文政8年(1825年)に至る詩103首、巻2は文政9年(1826年)より弘化4年(1847年)に至る詩44首、巻3は引、記、碑文、銘、題跋、像賛、幟、連を収め、巻4は嘉永2年(1849年)より文久2年(1862年)に至る詩118首である。文久2年出版。[6]
  • 『天八衢(あめのやちまた)』
    • 国学者としての岩下の神道思想書である。嘉永2年(1849年)刊。[6]
  • 『義僕伝蔵伝』
    • 1巻。伝蔵という高井郡中島村出身の人物の伝記である。弘化4年(1847年)刊。[6]
  • 堤中納言物語標注』
    • 1巻。岩下貞融の著書の中で最も高い評価を受けている。『堤中納言物語』を解題し、本文に注を加えたもの。昭和16年(1941年)藤田徳太郎が『王朝文学の歴史と精神』の中で紹介してから世に出、昭和42年(1967年)刊の土岐武治『堤中納言物語の研究』には20ページにわたって詳説されている。[6]
  • 『ひとりごと』
    • 1巻。日本における香の歴史を述べた書。[6]
  • 『桜園集』
    • 10巻。善光寺大地震で文3巻歌1巻を残して焼失。[6]
  • 『桜園外集』
    • 6巻。『桜園集』の続編で、和文和歌集。善光寺大地震で1巻を残して焼失。[6]
  • 『草津私記』
    • 1巻。天保3年、大勧進別当光純に供して草津温泉に遊んだ時の紀行と思われる。[6]
  • 『沓野日記』
    • 1巻。文政9年沓野の温泉に遊んだ時の日記。[6]
  • 『桜園詩文』
    • 漢詩文集。善光寺大地震で1巻を残して焼失。所在不明。[6]
  • 『桜園詩話』
    • 3巻。地震で2巻を焼失。所在不明。[6]
  • 『枕草子夜話抄』
    • 『枕草子』の注釈書。「桜園著述目録」にその名が見え、『不繋舟』にはその自序のみが載る。所在不明。[6]
  • 『天の御中』
    • 1巻。神道思想の書。所在不明。[6]

以下は焼失したものである。

  • 『孝経集伝』
  • 『中庸微頭』
  • 『二十四番唱和詩』
  • 『六運要略』
  • 『転音例』
  • 『伊呂波小伝』
  • 『歌体弁』
  • 『管樵暇筆』
  • 『桜園叢書』
  • 『桜園叢説』

脚注

  1. ^ a b c 『長野市の筆塚 第一集』信学会、1982年1月1日、55-56頁。 
  2. ^ a b 『善光寺の一茶』光竜堂、2018年12月28日、34頁。 
  3. ^ a b c 『長野 第67号』長野郷土史研究会、1976年5月1日、74,75頁。 
  4. ^ a b 人物 | もっと!長野市 CITY PROMOTION”. nagano-citypromotion.com. 2023年3月5日閲覧。
  5. ^ a b 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典, デジタル版. “岩下貞融(いわした さだあき)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月5日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『長野 第67号』長野郷土史研究会、1976年5月1日、70-73頁。 

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