少数支配の時代 - 1290年-1321年
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「スロバキアの歴史」の記事における「少数支配の時代 - 1290年-1321年」の解説
王国へのモンゴルの侵略ののち、領主たちの間で競争が始まった。彼らのそれぞれが、王の許可を受けてあるいは受けずに城塞の建築に努めた。競争は、貴族間の分化の過程を開始させた。城を造営できるほどの貴族は隣の領主に影響をおよぼずことができるからである。王族間の紛争はまた貴族(彼らは時に、王から城県の全域を授かった)の権力を強化させ、王国に1290年代に有力な貴族たちによって統治される8つの広大な領邦を形成させる結果となった。現在のスロバキアでは、城のほとんどは二つのハンガリー人有力貴族(アバ・アマデー(英語版))とチャーク・マーテー(英語版))とその後継者が所有していた(ハンガリー人は姓を先に表記するので、それぞれアバとチャークが姓である)。1301年のアールパード王朝の滅亡ののち、彼らの両方が王権のもとの一つに従うふりをした。しかし実際は、彼らはその領地を独自に統治していた。アバ・アマデーは、ゲンツを本拠に、現在のスロバキア東部を統治していた。彼は、1311年カッシャ城(Kassa / Košice)の南門にてハンガリー・アンジュー朝のカーロイ・ローベルト(のちのカーロイ1世)の刺客によって殺された。チャーク・マーテーは、トレンチェーンを本拠にした、現在のスロバキア西部の事実上の統治者であった。彼はカッシャにたいして殺害されたアバ・アマデーの息子と同盟した。しかしカーロイ1世は、反対派に対しての王位の具備を統御し、軍事的支援を都市と国王軍に与え、彼を1312年のBattle of Rozgony / Rozhanovce にて打倒した。ところが北西部の城県は1321年に彼が死ぬ時まで残った。このときに、国王軍は抵抗なき彼のかつての居城を占領した。ポジョニュ(Pozsony / Požoň)城県は、1301年から1328年のカーロイ1世の再占領まで、事実上、オーストリア公によって統治されていた。
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