小谷城籠城・朝倉氏滅亡
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「小谷城の戦い」の記事における「小谷城籠城・朝倉氏滅亡」の解説
元亀4年3月、信長包囲網の盟主・足利義昭が槇島城で挙兵。信長は和睦を申し出るが義昭は拒絶、4月に一度は和睦したが、7月に義昭が再挙兵すると戦闘に及び義昭を降伏させ、7月20日に義昭を放逐し(槇島城の戦い)、28日には元亀から天正に改元させた。更に8月8日、浅井家重臣の山本山城主阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布いた。 織田軍は背後に朝倉氏が控えていた事もあり無理に力攻めはしなかった。一方、浅井長政は居城の小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていく。浅井氏は朝倉氏への援軍要請しか手段が無く、その朝倉氏は朝倉家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、義景自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。 ところが朝倉軍は前哨戦で敗北した上、構築した城砦(大嶽砦など)を容易く失陥。このため撤退し始めるが、そこを織田軍に夜襲され、壊滅的な敗北をこうむった(刀根坂の戦い)。義景は15日に一乗谷城に辿り着いたが、17日に織田軍は朝倉氏の居城一乗谷城を攻め焼き払ったため、最深部の大野郡の山田庄まで逃れ、ついに20日、朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏は滅びた(一乗谷城の戦い)。
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