小谷城籠城朝倉氏滅亡とは? わかりやすく解説

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小谷城籠城・朝倉氏滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:11 UTC 版)

小谷城の戦い」の記事における「小谷城籠城・朝倉氏滅亡」の解説

元亀4年3月信長包囲網盟主足利義昭槇島城挙兵信長和睦申し出る義昭拒絶4月一度和睦したが、7月義昭再挙兵すると戦闘に及び義昭降伏させ、7月20日義昭放逐し槇島城の戦い)、28日には元亀から天正改元させた。更に8月8日浅井家重臣山本山城主阿閉貞征織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、3軍勢率いて北近江への侵攻開始虎御前山の砦に本陣布いた織田軍は背後朝倉氏控えていた事もあり無理に力攻めはしなかった。一方浅井長政居城小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ小谷城孤立益々強まっていく。浅井氏朝倉氏への援軍要請しか手段無く、その朝倉氏朝倉家家中一部から上がった反対意見押し切り、義景自ら2万軍勢率いて小谷城北方まで進出する。 ところが朝倉軍は前哨戦敗北した上、構築した城砦大嶽砦など)を容易く失陥このため撤退し始めるが、そこを織田軍に夜襲され、壊滅的な敗北こうむった刀根坂の戦い)。義景は15日一乗谷城辿り着いたが、17日織田軍は朝倉氏居城一乗谷城攻め焼き払ったため、最深部大野郡山田庄まで逃れ、ついに20日朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏滅びた一乗谷城の戦い)。

※この「小谷城籠城・朝倉氏滅亡」の解説は、「小谷城の戦い」の解説の一部です。
「小谷城籠城・朝倉氏滅亡」を含む「小谷城の戦い」の記事については、「小谷城の戦い」の概要を参照ください。

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