小渕派時代
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1993年6月、羽田・小沢派は離党して新生党を結成。細川護煕を首相とする非自民政権を樹立した。 細川・羽田内閣と非自民政権が短期間で崩壊、村山内閣が成立し自民党が与党に復帰すると、小渕派も次第に勢力を回復した。1995年の総裁選で竹下は派閥幹部の橋本龍太郎の擁立を決定。総裁就任後、1996年1月の村山内閣退陣をうけ、後任の総理大臣に就任した。その間、党内の派閥解消運動や、小派閥転落で事務所維持費が厳しくなったため、田中派時代より入居していた砂防会館から経世会の看板を下ろし、平成政治研究会に改称した。その後、平成研究会に改称。 派閥出身の橋本龍太郎が首相時代に普天間基地移設問題に尽力したこともあり、防衛問題や沖縄問題に強い派閥として知られている。 1998年7月の参議院議員選挙で敗北すると、竹下は即座に総理総裁職を橋本から派閥会長である小渕へ交代するよう指示。後継の会長には綿貫民輔が就任した。この決定を不服として、梶山静六は派閥を退会して独自に総裁選に出馬。のちに令和の年号を発表することとなる菅義偉も同時に退会して宏池会に移った。 竹下は小泉純一郎を出馬させて三つ巴の形を採り、それまで「一致結束・箱弁当」と呼ばれた小渕派が初めて綻びを見せた。この頃から、将来をつなぐはずだった若手のほとんどが小沢・羽田らと共に自民党を離党したことを背景に、小渕派の後継者が不在であることが派閥のアキレス腱として囁かれ始める。
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