寒月のひかりにとほき星の闇
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出 典 |
寒鶯抄 |
前 書 |
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評 言 |
俳誌「雲母」にあって、その有力同人として飯田蛇笏に長く師事し、龍太の主宰継承後も変わることなく結社を支え続けた作者の代表句のひとつ。蒼石は、明治20年滋賀県に生まれたが、幼くして父を失い、母の手ひとつで育てられた。奉公先の京都の織物問屋での苦労、その後は関東大震災や先の大戦で家族を失うなど、様々の辛苦に堪え、俳句の世界に慰藉を求めた。師の蛇笏とは同世代であるが、大正末年に識り合い、その作風に傾倒、生涯を懸けて「雲母」の隆盛に尽した。 掲句は、長男・愼一がニューギニア方面にて戦死、その訃報を受けて昭和18年に作られた。寒月の奥に輝く星々の光とその奥の果てしない闇は実景であろうが、その景を見上げる作者の心中は如何ばかりか。その悲傷は二児を戦争で喪った師の蛇笏も同様である。〈冬滝のきけば相つぐこだまかな 蛇笏〉 両者は、その俳句作品を通して、そうした事態を冷厳に凝視し、自らの運命を見定めた俳句を遺している。後年、蛇笏逝去の後に蒼石は、〈空澄むをうべなうて野の枯れゆけり〉と詠い、永年の師を哀惜したのである。 蒼石は昭和48年、第4句集「雪」で第7回の蛇笏賞を受けたが、その繊細な自然観照と重厚且つ平安な句境との均衡を失うことなく、昭和57年1月8日、94年の生涯を静かに閉じた。最後の第5句集となった「雁」には、〈聲のなき雁人をおほひ去る〉が収められているが、これは奇しくも師の作品〈寒雁のつぶらかな聲地に落ちず 蛇笏〉と照応しており、龍太はこれらを師弟同行の深い絆と鑑賞した。 写真は蛇笏と蒼石〈右〉「雲母」昭和三十四年九月号(撮影:飯田龍太) |
評 者 |
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備 考 |
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