家族、愛人との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
檀一雄は太宰を「彼ほど人々に絶望しながら、人々に甘え媚びた男を知らない」と評している。また河盛好蔵は太宰自身が語った「人を愛する能力においては欠けているところがある」との言葉を踏まえた上で、「人一倍愛情に飢えながら、人から与えられる愛情をすぐに重荷に感じて、よろめくところがあった」と見なしている。太宰はやがて山崎富栄の献身的な愛情を重荷に感じるようになっていく。太宰の様子に不安感を覚えた山崎富栄であったが、上京した母親の忠告にも耳を貸そうとはしないなど、よりかたくなに太宰を求めるようになり、太宰との死を夢見るようになった。 太宰の立場をより苦しくしたのが太田静子の妊娠、出産であった。太宰の友人である伊馬春部によれば、太宰の妻、美知子は、太田静子が身ごもったことを知った後、酒の飲み方がひどくなり、家を空けることが増える等、太宰の生活が目立って荒れてきたと語っていた。1947年11月、太田静子が女の子を出産したことを知った太宰は、自らの子であると認知した上、自らの名を取って治子と命名した。太宰の認知と命名を見た山崎富栄は激怒した。太宰は「僕たちふたりはいい恋人になろうね、死ぬときは一緒、連れていくよ」と話し、山崎富栄の気持ちを収めた。また太宰は太田静子とは直接交渉を持たず、連絡が必要な際は山崎富栄を通すことにして、子の養育費の仕送りも山崎富栄が行うことにすることで納得させた。 山崎富栄との愛人関係が続く中での太田静子の出産という事態の中で、家族との関係は悪化していた。1947年末、太宰の自宅を訪ねた旧友は、家が荒れていることに気づく。もともと太宰の妻の美知子はきれい好きであったが、ふすまが煤け大きなしみがついたままであり、障子紙も破れたままに放置されていた。太宰と山崎富栄との関係は、妻、美知子も感づいており、家に戻ることが少なく、家庭を顧みようとはしない太宰を見て、家事を行う意欲を失っていた。太宰を悩ませていたのは妻との関係もあったが、知的障害があった長男のことも心配であった。太宰は長男の行く末に悲観的であり、将来のことを気にかけていて、そのことを山崎富栄に対しても話していた。太宰の家庭は危機的な状況にあった。 この間、太宰は友人たちに自らの苦境を訴える手紙を出している。1947年4月初めには、「つい深入りした女などが出来て、死にたいくらい」と書いたのを皮切りに、6月後半には「酒と女性と仕事でめちゃくちゃ」とこぼし、12月には「病気になった上に、女の問題がいろいろからみ合い、文字通り半死半生の現状」と書いている。1947年12月初めには睡眠薬の飲み過ぎで死にかけるという事件を起こしていた。この1947年12月初旬の睡眠薬大量摂取を、太宰の自殺企図歴のひとつに数える見方もある。
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